有司と有司。その結果は神奈川条約調印の是非と、徳川世子の継嗣問題とにからんであらわれて来た。しかもそれらは大きな抗争の序幕であったに過ぎぬ。井伊大老の期するところは沸騰した国論の統一にあったろうけれど、彼は世にもまれに見る闘士として政治の舞台にあらわれて来た。いわゆる反対派の張本人なる水戸の御隠居(烈公)を初め、それに荷担した大名有司らが謹慎や蟄居《ちっきょ》を命ぜられたばかりでなく、強い圧迫は京都を中心に渦巻《うずま》き始めた新興勢力の苗床《なえどこ》にまで及んで行った。京都にある鷹司《たかつかさ》、近衛《このえ》、三条の三公は落飾《らくしょく》を迫られ、その他の公卿《くげ》たちの関東反対の嫌疑《けんぎ》のかかったものは皆謹慎を命ぜられた。老女と言われる身で、囚人として江戸に護送されたものもある。民間にある志士、浪人、百姓、町人などの捕縛と厳刑とが続きに続いた。一人《ひとり》は切腹に、一人は獄門に、五人は死罪に、七人は遠島に、十一人は追放に、九人は押込《おしこめ》に、四人は所払《ところばら》いに、三人は手鎖《てじょう》に、七人は無構《かまいなし》に、三人は急度叱《きっとしか》りに。勤王攘夷《きんのうじょうい》の急先鋒《きゅうせんぽう》と目ざされた若狭《わかさ》の梅田雲浜《うめだうんぴん》のように、獄中で病死したものが別に六人もある。水戸の安島帯刀《あじまたてわき》、越前《えちぜん》の橋本|左内《さない》、京都の頼鴨崖《らいおうがい》、長州の吉田松陰《よしだしょういん》なぞは、いずれも恨みをのんで倒れて行った人たちである。
こんな周囲の空気の中で、だれもがまだ容易に信用しようともしない外国人の中へ、中津川の商人らは飛び込んで来た。神奈川条約はすでに立派に調印されて、外国貿易は公然の沙汰《さた》となっている。生糸でも売り込もうとするものにとって、なんの憚《はばか》るところはない。寛永十年以来の厳禁とされた五百石以上の大船を造ることも許されて、海はもはや事実において解放されている。遠い昔の航海者の夢は、二百何十年の長い鎖国の後に、また生き還《かえ》るような新しい機運に向かって来ている。
寛斎がこの出稼ぎに来たころは六十に近かった。田舎《いなか》医者としての彼の漢方での治療の届くかぎりどんな患者でも診《み》ないことはなかったが、中にも眼科を得意にし、中津川の町より
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