旅人は、否《いや》でも応《おう》でもこの道を踏まねばならぬ。一里ごとに塚《つか》を築き、榎《えのき》を植えて、里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。
馬籠《まごめ》は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。そこは美濃境《みのざかい》にも近い。美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、高い峠の上の位置にこの宿《しゅく》を見つける。街道の両側には一段ずつ石垣《いしがき》を築いてその上に民家を建てたようなところで、風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。宿場らしい高札《こうさつ》の立つところを中心に、本陣《ほんじん》、問屋《といや》、年寄《としより》、伝馬役《てんまやく》、定歩行役《じょうほこうやく》、水役《みずやく》、七里役《しちりやく》(飛脚)などより成る百軒ばかりの家々が主《おも》な部分で、まだそのほかに宿内の控えとなっている小名《こな》の家数を加えると六十軒ばかりの民家を数える。荒町《あらまち》、みつや、横手《よこて》、中のかや、岩田《いわた》、峠《とうげ》などの部落がそれだ。そこの宿はずれでは狸《たぬき》の膏薬《こうやく》を売る。名物|栗《くり》こわめしの看板を軒に掛けて、往来の客を待つ御休処《おやすみどころ》もある。山の中とは言いながら、広い空は恵那山《えなさん》のふもとの方にひらけて、美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。なんとなく西の空気も通《かよ》って来るようなところだ。
本陣の当主|吉左衛門《きちざえもん》と、年寄役の金兵衛《きんべえ》とはこの村に生まれた。吉左衛門は青山の家をつぎ、金兵衛は、小竹の家をついだ。この人たちが宿役人として、駅路一切の世話に慣れたころは、二人《ふたり》ともすでに五十の坂を越していた。吉左衛門五十五歳、金兵衛の方は五十七歳にもなった。これは当時としてめずらしいことでもない。吉左衛門の父にあたる先代の半六などは六十六歳まで宿役人を勤めた。それから家督を譲って、ようやく隠居したくらいの人だ。吉左衛門にはすでに半蔵《はんぞう》という跡継ぎがある。しかし家督を譲って隠居しようなぞとは考えていない。福島の役所からでもその沙汰《さた》があって、いよ
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