に立つべったら市のにぎわいも見られたとかみさんはいう。芝居《しばい》は、と尋ねると、市村《いちむら》、中村、森田三座とも狂言|名題《なだい》の看板が出たばかりのころで、茶屋のかざり物、燈籠《とうろう》、提灯《ちょうちん》、つみ物なぞは、あるいは見られても、狂言の見物には月のかわるまで待てという。当時売り出しの作者の新作で、世話に砕けた小団次《こだんじ》の出し物が見られようかともいう。
「朔日《ついたち》の顔見世《かおみせ》は明けの七つ時《どき》でございますよ。太夫《たゆう》の三番叟《さんばそう》でも御覧になるんでしたら、暗いうちからお起きにならないと、間に合いません。」
「江戸の芝居見物も一日がかりですね。」
こんな話の出るのも、旅らしかった。
夕飯後、半蔵はかねて郷里を出る時に用意して来た一通の書面を旅の荷物の中から取り出した。
「どれ、一つ寿平次さんに見せますか。これがあす持って行く誓詞《せいし》です。」
と言って寿平次の前に置いた。
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誓詞
「このたび、御門入り願い奉《たてまつ》り候《そうろう》ところ、御許容なし下され、御門人の列に召し加えられ、本懐の至りに存じ奉り候。しかる上は、専《もは》ら皇国の道を尊信いたし、最も敬神の儀怠慢いたすまじく、生涯《しょうがい》師弟の儀忘却|仕《つかまつ》るまじき事。
公《おおやけ》の御制法に相背《あいそむ》き候儀は申すに及ばず。すべて古学を申し立て、世間に異様の行ないをいたし、人の見聞を驚かし候ようの儀これあるまじく、ことさら師伝と偽り奇怪の説など申し立て候儀、一切仕るまじき事。
御流儀においては、秘伝口授など申す儀、かつてこれなき段、堅く相守り、さようの事申し立て候儀これあるまじく、すべて鄙劣《ひれつ》の振舞をいたし古学の名を穢《けが》し申すまじき事。
学の兄弟相かわらず随分|睦《むつ》まじく相交わり、互いに古学興隆の志を相励み申すべく、我執《がしゅう》を立て争論なぞいたし候儀これあるまじき事。
右の条々、謹《つつし》んで相守り申すべく候。もし違乱に及び候わば、八百万《やおよろず》の天津神《あまつかみ》、国津神《くにつかみ》、明らかに知ろしめすべきところなり。よって、誓詞|如件《くだんのごとし》。」
[#地から4字上げ]信州、木曾、馬籠村
[#地から2字上げ]青山半蔵
安政三年十月
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