道にもあらわれて来た。村では遠く江戸から焼け出されて来た人たちに物を与えるものもあり、またそれを見物するものもある。月も末になるころには、吉左衛門は家のものを集めて、江戸から届いた震災の絵図をひろげて見た。一鶯斎国周《いちおうさいくにちか》画、あるいは芳綱《よしつな》画として、浮世絵師の筆になった悲惨な光景がこの世ながらの地獄《じごく》のようにそこに描き出されている。下谷広小路《したやひろこうじ》から金龍山《きんりゅうさん》の塔までを遠見にして、町の空には六か所からも火の手が揚がっている。右に左にと逃げ惑う群衆は、京橋|四方蔵《しほうぐら》から竹河岸《たけがし》あたりに続いている。深川《ふかがわ》方面を描いたものは武家、町家いちめんの火で、煙につつまれた火見櫓《ひのみやぐら》も物すごい。目もくらむばかりだ。
半蔵が日ごろその人たちのことを想望していた水戸の藤田東湖《ふじたとうこ》、戸田蓬軒《とだほうけん》なぞも、この大地震の中に巻き込まれた。おそらく水戸ほど当時の青年少年の心を動かしたところはなかったろう。彰考館《しょうこうかん》の修史、弘道館《こうどうかん》の学問は言うまでもなく、義公、武公、烈公のような人たちが相続いてその家に生まれた点で。御三家《ごさんけ》の一つと言われるほどの親藩でありながら、大義名分を明らかにした点で。『常陸帯《ひたちおび》』を書き『回天詩史《かいてんしし》』を書いた藤田東湖はこの水戸をささえる主要な人物の一人《ひとり》として、少年時代の半蔵の目にも映じたのである。あの『正気《せいき》の歌』なぞを諳誦《あんしょう》した時の心は変わらずにある。そういう藤田東湖は、水戸内部の動揺がようやくしげくなろうとするころに、開港か攘夷《じょうい》かの舞台の序幕の中で、倒れて行った。
「東湖先生か。せめてあの人だけは生かして[#「生かして」は底本では「生かし」]置きたかった。」
と半蔵は考えて、あの藤田東湖の死が水戸にとっても大きな損失であろうことを想《おも》って見た。
やがて村へは庚申講《こうしんこう》の季節がやって来る。半蔵はそのめっきり冬らしくなった空をながめながら、自分の二十五という歳《とし》もむなしく暮れて行くことを思い、街道の片すみに立ちつくす時も多かった。
四
安政三年は馬籠《まごめ》の万福寺で、松雲|和尚《おしょう
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