別もなく、互いに食うものを分け、互いに着るものを心配し合う光景は、こんな非常時でなければ見られなかった図だ。
 村民一同が各自の家に帰って寝るようになったのは、ようやく十一月の十三日であった。はじめて地震が来た日から数えて実に十日目に当たる。夜番に、見回りに、ごく困窮な村民の救恤《きゅうじゅつ》に、その間、半蔵もよく働いた。彼は伏見屋から大坂[#「大坂」は底本では「大阪」]地震の絵図なぞを借りて来て、それを父と一緒に見たが、震災の実際はうわさよりも大きかった。大地震の区域は伊勢《いせ》の山田辺から志州《ししゅう》の鳥羽《とば》にまで及んだ。東海道の諸宿でも、出火、潰《つぶ》れ家《や》など数えきれないほどで、宮《みや》の宿《しゅく》から吉原《よしわら》の宿までの間に無難なところはわずかに二宿しかなかった。
 やがて、その年初めての寒さも山の上へやって来るようになった。一切を沈黙させるような大雪までが十六日の暮れ方から降り出した。その翌日は風も立ち、すこし天気のよい時もあったが、夜はまた大雪で、およそ二尺五寸も積もった。石を載せた山家の板屋根は皆さびしい雪の中に埋《うず》もれて行った。


「九太夫さん、どうもわたしは年回りがよくないと思う。」
「どうでしょう、馬籠でも年を祭り替えることにしては。」
「そいつはおもしろい考えだ。」
「この街道筋でも祭り替えるようなうわさで、村によってはもう松を立てたところもあるそうです。」
「早速《さっそく》、年寄仲間や組頭の連中を呼んで、相談して見ますか。」
 本陣の吉左衛門と問屋の九太夫とがこの言葉をかわしたのは、村へ大地震の来た翌年安政二年の三月である。
 流言。流言には相違ないが、その三月は実に不吉な月で、悪病が流行するか、大風が吹くか、大雨が降るかないし大饑饉《だいききん》が来るか、いずれ天地の間に恐ろしい事が起こる。もし年を祭り替えるなら、その災難からのがれることができる。こんなうわさがどこの国からともなくこの街道に伝わって来た。九太夫が言い出したこともこのうわさからで。
 やがて宿役人らが相談の結果は村じゅうへ触れ出された。三月節句の日を期して年を祭り替えること。その日およびその前日は、農事その他一切の業務を休むこと。こうなると、流言の影響も大きかった。村では時ならぬ年越しのしたくで、暮れのような餅搗《もちつ》きの音が聞こ
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