うちから、金兵衛の心は舞台の楽屋の方へも、桟敷《さじき》の方へも行った。だんだら模様の烏帽子《えぼし》をかぶり、三番叟《さんばそう》らしい寛濶《かんかつ》な狂言の衣裳をつけ、鈴を手にした甥《おい》の姿が、彼の目に見えて来た。戻《もど》り籠《かご》に出る籠かき姿の子が杖《つえ》でもついて花道にかかる時に、桟敷の方から起こる喝采《かっさい》は、必ず「伏見屋」と来る。そんな見物の掛け声まで、彼の耳の底に聞こえて来た。
「ほんとに、おれはこんなばかな男だ。」
金兵衛はそれを自分で自分に言って、束にして掛けた杉《すぎ》の葉のしるしも酒屋らしい伏見屋の門口を、出たりはいったりした。
三日続いた狂言はかなりの評判をとった。たとい村芝居でも仮借《かしゃく》はしなかったほど藩の検閲は厳重で、風俗壊乱、その他の取り締まりにと木曾福島の役所の方から来た見届け奉行《ぶぎょう》なぞも、狂言の成功を祝って引き取って行ったくらいであった。
いたるところの囲炉裏《いろり》ばたでは、しばらくこの狂言の話で持ち切った。何しろ一年に一度の楽しい祭りのことで、顔だちから仕草《しぐさ》から衣裳まで三拍子そろった仙十郎が三番叟の美しかったことや、十二歳で初舞台を踏んだ鶴松が難波治郎作のいたいけであったことなぞは、村の人たちの話の種になって、そろそろ大根引きの近づくころになっても、まだそのうわさは絶えなかった。
旧暦十一月の四日は冬至《とうじ》の翌日である。多事な一年も、どうやら滞りなく定例の恵比須講《えびすこう》を過ぎて、村では冬至を祝うまでにこぎつけた。そこへ地震だ。あの家々に簾《すだれ》を掛けて年寄りから子供まで一緒になって遊んだ祭りの日から数えると、わずか四十日ばかりの後に、いつやむとも知れないようなそんな地震が村の人たちを待っていようとは。
吉左衛門の家では一同裏の竹藪《たけやぶ》へ立ち退《の》いた。おまんも、お民も、皆|足袋《たび》跣足《はだし》で、半蔵に助けられながら木小屋の裏に集まった。その時は、隠居はもはやこの世にいなかった。七十三の歳《とし》まで生きたあのおばあさんも、孫のお民が帯祝いの日にあわずじまいに、ましてお民に男の子の生まれたことも、生まれる間もなくその子の亡《な》くなったことも、そんな慶事と不幸とがほとんど[#「ほとんど」は底本では「ほんど」]同時にやって来たことも知
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