し早くやって来たというまでだ。それに気質の合わないことが次第によくわかって来た兄妹《きょうだい》をこんな狭い巣のようなところに無理に一緒に置くことの弊害をも考えた。何も試みだ、とそう考えた。私は三郎ぐらいの年ごろに小さな生活を始めようとした自分の若かった日のことを思い出して現に私から離れて行こうとしている三郎の心をいじらしくも思った。
 この三郎を郊外のほうへ送り出すために、私たちの家では半分引っ越しのような騒ぎをした。三郎の好みで、二枚の座ぶとんの更紗《さらさ》模様も明るい色のを造らせた。役に立つか立たないかしれないような古い椅子《いす》や古い時計の家にあったのも分けた。持たせてやるものも、ないよりはまだましだぐらいの道具ばかり、それでも集めて、荷物にして見れば、洗濯《せんたく》したふとんから何からでは、おりから白く町々を埋《うず》めた春先の雪の路《みち》を一台の自動車で運ぶほどであった。

 その時になって見ると、三人の兄弟《きょうだい》の子供は順に私から離れて行って、末子|一人《ひとり》だけが私のそばに残った。三郎を送り出してからは、にわかに私たちの家もひっそりとして、食卓もさびしかった。私は娘と婆《ばあ》やを相手に日を暮らすようになったが、次第に私の生活は変わって行くように見えた。巣から分かれる蜂《はち》のように、いずれ末子も兄たちのあとを追って、私から離れて行く日が来る。これはもはや、時の問題であるように見えた。私は年老いて孤独な自分の姿を想像で胸に浮かべるようになった。
 しかし、これはむしろ私の望むところであった。私か、私は三十年一日のような著作生活を送って来たものに過ぎない。世には七十いくつの晩年になって、まだ生活を単純にすることを考え、家からも妻子からもいっさいの財産からものがれ、全くの一人となろうとした人もあったと聞くが、早く妻を先立《さきだ》てた私はそれと反対に、自分は家にとどまりながら成長する子供を順に送り出して、だんだん一人になるような道を歩いて来た。
 私の周囲へはすでに幾度か死が訪れて来た。最近にもまた本郷《ほんごう》の若い甥《おい》の一人がにわかに腎臓炎で亡《な》くなったという通知を受けた。ちょうど、私の家では次郎が徴兵適齢に当たって、本籍地の東京で検査を受けるために郷里のほうから出て来ていた時であった。次郎も兄の農家を助けながら描《
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