私にはそれが不思議なくらいに思えて、あのわびしさを友としていたような人はどこへ行ったろう、とそれを長い間の疑問として残していた。年をとってみて、私も他人の心を読むようになった。あれはただ裕福な人の邸ではなくて、若い時分に人一倍貧苦をなめ尽くした人の住む家だと気がついた。
次郎や、末子をそばに置いて、私は若いさかりの子供らが知らない貯蓄の誘惑に気を腐らした。あるところにはあり過ぎるような金から見たら、おそらく二万円ぐらいはなんでもないかもしれない。しかし、ないところにはなさ過ぎる金から見たら、それだけまとまった高でも大きい。でも、私は、土の中へでも埋《うず》めて置くように、死に金をしまって置く気はなかった。どうそれを使ったものかと思った。
どの時代を思い出してみても、私にはそう楽《らく》なという日もない。ずっと以前に、私は著作のしたくをするつもりで、三年ばかり山の上に全く黙って暮らしたこともある。私もすでに結婚してから三年目で、家のものなぞはそろそろ単調な田舎《いなか》生活に飽いて来て、こんなことでいつ芽が出るかという顔つきであったし、それに私たちの家ではあの山の上だからやって行けたと思うほどの切り詰めた暮らしをしていたから、そういう不自由さとも戦わねばならなかったし、毎年十一月から翌年の三月へかけて五か月もの長い冬とも戦わねばならなかった。一度降ったら春まで溶けずにある雪の積もりに積もった庭に向いた部屋《へや》で、寒さのために凍《し》み裂ける恐ろしげな家の柱の音なぞを聞きながら、夜おそくまでひとりで机にむかっていた時の心持ちは忘れられない。でも、私はあの山の上から東京へ出て来て見るたびに、とにもかくにも出版業者がそれぞれの店を構え、店員を使って、相応な生計を営んで行くのにその原料を提供する著作者が――少数の例外はあるにもせよ――食うや食わずにいる法はないと考えた。私が全くの著作生活に移ろうとしたのも、そのころからであった。
私の目にはまだ、六畳に二畳の二階が残っている。壁がある。障子がある。ごちゃごちゃとした町中の往来を隔てて、魚《さかな》を並べた肴屋《さかなや》の店がその障子の外に見おろされる。向かい隣には、白い障子のはまった下町《したまち》風の窓も見える。そこは私があの山の上から二度目に越して行った家の二階で、都会の空気も濃いところだ。かつみさん夫婦がか
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