ひ》を嗅いで見ると、急に過去《すぎさ》つた天長節のことが丑松の胸の中に浮んで来る。去年――一昨年――一昨々年――噫《あゝ》、未だ世の中を其程《それほど》深く思ひ知らなかつた頃は、噴飯《ふきだ》したくなるやうな、気楽なことばかり考へて、この大祭日を祝つて居た。手袋は旧《もと》の儘《まゝ》、色は褪《さ》めたが変らずにある。それから見ると人の精神《こゝろ》の内部《なか》の光景《ありさま》の移り変ることは。これから将来《さき》の自分の生涯は畢竟《つまり》奈何《どう》なる――誰が知らう。来年の天長節は――いや、来年のことは措《お》いて、明日のことですらも。斯う考へて、丑松の心は幾度《いくたび》か明くなつたり暗くなつたりした。
 さすがに大祭日だ。町々の軒は高く国旗を掲げ渡して、いづれの家も静粛に斯の記念の一日《ひとひ》を送ると見える。少年の群は喜ばしさうな声を揚げ乍ら、霜に濡れた道路を学校の方へと急ぐのであつた。悪戯盛《いたづらざか》りの男の生徒、今日は何時にない大人びた様子をして、羽織袴でかしこまつた顔付のをかしさ。女生徒は新しい海老茶袴《えびちやばかま》、紫袴であつた。

       (二)

 国のみかどの誕生の日を祝ふために、男女の生徒は足拍子揃へて、二階の式場へ通ふ階段を上つた。銀之助は高等二年を、文平は高等一年を、丑松は高等四年を、いづれも受持々々の組の生徒を引連れて居た。退職の敬之進は最早《もう》客分ながら、何となく名残が惜まるゝといふ風で、旧《もと》の生徒の後に随《つ》いて同じやうに階段を上るのであつた。
 斯の大祭の歓喜《よろこび》の中にも、丑松の心を驚かして、突然新しい悲痛《かなしみ》を感ぜさせたことがあつた。といふは、猪子蓮太郎の病気が重くなつたと、ある東京の新聞に出て居たからで。尤《もつと》も丑松の目に触れたは、式の始まるといふ前、審《くは》しく読む暇も無かつたから、其儘《そのまゝ》懐中《ふところ》へ押込んで来たのであつた。世には短い月日の間に長い生涯を送つて、あわただしく通り過ぎるやうに生れて来た人がある。恐らく蓮太郎も其一人であらう。新聞には最早《もう》むつかしいやうに書いてあつた。あゝ、先輩の胸中に燃える火は、世を焼くよりも前《さき》に、自分の身体を焚《や》き尽して了《しま》ふのであらう。斯ういふ同情《おもひやり》は一時《いつとき》も丑松の胸を離れない。猶《なほ》繰返し読んで見たさは山々、しかし左様《さう》は今の場合が許さなかつた。
 其日は赤十字社の社員の祝賀をも兼ねた。式場に集る人々の胸の上には、赤い織色の綬《きれ》、銀の章《しるし》の輝いたのも面白く見渡される。東の壁のところに、二十余人の寺々の住職、今年にかぎつて蓮華寺一人欠けたのも物足りないとは、流石《さすが》に土地柄も思はれてをかしかつた。殊に風采の人目を引いたのは、高柳利三郎といふ新進政事家、すでに檜舞台《ひのきぶたい》をも踏んで来た男で、今年もまた代議士の候補者に立つといふ。銀之助、文平を始め、男女の教員は一同風琴の側に集つた。
『気をつけ。』
 と呼ぶ丑松の凛《りん》とした声が起つた。式は始つたのである。
 主座教員としての丑松は反つて校長よりも男女の少年に慕はれて居た。丑松が『最敬礼』の一声は言ふに言はれぬ震動を幼いものゝ胸に伝へるのであつた。軈《やが》て、『君が代』の歌の中に、校長は御影《みえい》を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷《らい》のやうに響き渡る。其日校長の演説は忠孝を題に取つたもので、例の金牌《きんぱい》は胸の上に懸つて、一層《ひとしほ》其風采を教育者らしくして見せた。『天長節』の歌が済む、来賓を代表した高柳の挨拶もあつたが、是はまた場慣れて居る丈《だけ》に手に入つたもの。雄弁を喜ぶのは信州人の特色で、斯ういふ一場の挨拶ですらも、人々の心を酔はせたのである。
 平和と喜悦《よろこび》とは式場に満ち溢れた。
 閉会の後、高等四年の生徒はかはる/″\丑松に取縋《とりすが》つて、種々《いろ/\》物を尋ねるやら、跳《はね》るやら。あるものは手を引いたり、あるものは袖の下を潜り抜けたりして、戯れて、避《よ》けて行かうとする丑松を放すまいとした。仙太と言つて、三年の生徒で、新平民の少年がある。平素《ふだん》から退《の》け者《もの》にされるのは其生徒。けふも寂しさうに壁に倚凭《よりかゝ》つて、皆《みんな》の歓《よろこ》び戯れる光景《ありさま》を眺め乍ら立つて居た。可愛さうに、仙太は斯《こ》の天長節ですらも、他の少年と同じやうには祝ひ得ないのである。丑松は人知れず口唇《くちびる》を噛み〆《しめ》て、『勇気を出せ、懼《おそ》れるな』と励ますやうに言つて遣りたかつた。丁度他の教師が見て居たので、丑松は遁《に》げる
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