日を送る女といふものは僕も初めて見た。』
『外にはどんな人が居るのかい。』斯う銀之助は尋ねた。
『子坊主が一人。下女。それに庄太といふ寺男。ホラ、君等の入つて来た時、庭を掃いて居た男があつたらう。彼《あれ》が左様《さう》だあね。誰も彼男《あのをとこ》を庄太と言ふものは無い――皆《みん》な「庄馬鹿」と言つてる。日に五度《ごたび》づつ、払暁《あけがた》、朝八時、十二時、入相《いりあひ》、夜の十時、これだけの鐘を撞《つ》くのが彼男《あのをとこ》の勤務《つとめ》なんださうだ。』
『それから、あの何は。住職は。』とまた銀之助が聞いた。
『住職は今留守さ。』
 斯う丑松は見たり聞いたりしたことを取交ぜて話したのであつた。終《しまひ》に、敬之進の娘で、是寺へ貰はれて来て居るといふ、そのお志保の話も出た。
『へえ、風間さんの娘なんですか。』と文平は巻煙草の灰を落し乍ら言つた。『此頃《こなひだ》一度校友会に出て来た――ホラ、あの人でせう?』
『さう/\。』と丑松も思出したやうに、『たしか僕等の来る前の年に卒業して出た人です。土屋君、左様《さう》だつたねえ。』
『たしか左様だ。』

       (四)

 其日蓮華寺の台所では、先住の命日と言つて、精進物《しやうじんもの》を作るので多忙《いそが》しかつた。月々の持斎《ぢさい》には経を上げ膳を出す習慣《ならはし》であるが、殊に其日は三十三回忌とやらで、好物の栗飯を炊《た》いて、仏にも供へ、下宿人にも振舞ひたいと言ふ。寺内の若僧の妻までも来て手伝つた。用意の調《とゝの》つた頃、奥様は台所を他《ひと》に任せて置いて、丑松の部屋へ上つて来た。丑松も、銀之助も、文平も、この話好きな奥様の目には、三人の子のやうに映つたのである。昔者とは言ひ乍ら、書生の談話《はなし》も解つて、よく種々《いろ/\》なことを知つて居た。時々|宗教《をしへ》の話なぞも持出した。奥様はまた十二月二十七日の御週忌の光景《ありさま》を語り聞かせた。其冬の日は男女《をとこをんな》の檀徒が仏の前に集つて、記念の一夜を送るといふ昔からの習慣を語り聞かせた。説教もあり、読経もあり、御伝抄《おでんせう》の朗読もあり、十二時には男女一同御夜食の膳に就くなぞ、其御通夜の儀式のさま/″\を語り聞かせた。
『なむあみだぶ。』
 と奥様は独語のやうに繰返して、やがて敬之進の退職のことを尋ねる。
 奥様に言はせると、今の住職が敬之進の為に尽したことは一通りで無い。あの酒を断つたらば、とは克《よ》く住職の言ふことで、禁酒の証文を入れる迄に敬之進が後悔する時はあつても、また/\縒《より》が元へ戻つて了ふ。飲めば窮《こま》るといふことは知りつゝ、どうしても持つた病には勝てないらしい。その為に敷居が高くなつて、今では寺へも来られないやうな仕末。あの不幸《ふしあはせ》な父親の為には、どんなにかお志保も泣いて居るとのことであつた。
『左様《さう》ですか――いよ/\退職になりましたか。』
 斯う言つて奥様は嘆息した。
『道理で。』と丑松は思出したやうに、『昨日私が是方《こちら》へ引越して来る時に、風間さんは門の前まで随いて来ましたよ。何故斯うして門の前まで一緒に来たか、それは今説明しようとも思はない、なんて、左様《さう》言つて、それからぷいと別れて行つて了ひました。随分酔つて居ましたツけ。』
『へえ、吾寺《うち》の前まで? 酔つて居ても娘のことは忘れないんでせうねえ――まあ、それが親子の情ですから。』
 と奥様は復《ま》た深い溜息を吐《つ》いた。
 斯ういふ談話《はなし》に妨《さまた》げられて、銀之助は思ふことを尽さなかつた。折角《せつかく》言ふ積りで来て、それを尽さずに帰るのも残念だし、栗飯が出来たからと引留められもするし、夜にでもなつたらば、と斯う考へて、心の中では友達のことばかり案じつゞけて居た。
 夕飯は例になく蔵裏《くり》の下座敷であつた。宵の勤行《おつとめ》も済んだと見えて、給仕は白い着物を着た子坊主がして呉れた。五分心《ごぶしん》の灯は香の煙に交る夜の空気を照らして、高い天井の下をおもしろく見せる。古壁に懸けてある黄な法衣《ころも》は多分住職の着るものであらう。変つた室内の光景《ありさま》は三人の注意を引いた。就中《わけても》、銀之助は克《よ》く笑つて、其高い声が台所迄も響くので、奥様は若い人達の話を聞かずに居られなかつた。終《しまひ》にはお志保までも来て、奥様の傍に倚添《よりそ》ひ乍ら聞いた。
 急に文平は快活らしくなつた。妙に婦人の居る席では熱心になるのが是男の性分で、二階に三人で話した時から見ると、この下座敷へ来てからは声の調子が違つた。天性|愛嬌《あいけう》のある上に、清《すゞ》しい艶のある眸《ひとみ》を輝かし乍ら、興に乗つてよもやまの話を初めた時は
前へ 次へ
全122ページ中14ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング