給へ。』
斯う言つて、名残を惜む生徒にも同じ意味の言葉を繰返して、やがて丑松は橇に乗らうとした。
『御機嫌よう。』
それが最後にお志保を見た時の丑松の言葉であつた。
蕭条《せうでう》とした岸の柳の枯枝を経《へだ》てゝ、飯山の町の眺望《ながめ》は右側に展《ひら》けて居た。対岸に並び接《つゞ》く家々の屋根、ところ/″\に高い寺院の建築物《たてもの》、今は丘陵のみ残る古城の跡、いづれも雪に包まれて幽《かす》かに白く見渡される。天気の好い日には、斯《こ》の岸からも望まれる小学校の白壁、蓮華寺の鐘楼、それも霙の空に形を隠した。丑松は二度も三度も振向いて見て、ホツと深い大溜息を吐《つ》いた時は、思はず熱い涙が頬を伝つて流れ落ちたのである。橇《そり》は雪の上を滑り始めた。
[#地から2字上げ](明治三十九年三月)
底本:「現代日本文學大系13 島崎藤村集(一)」筑摩書房
1968(昭和43)年10月5日初版第1刷発行
初出:「破戒」緑蔭叢書第壱編、島崎春樹(自費出版)
1906(明治39)年3月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:野口英司
校正:伊藤時也
2006年10月22日作成
2007年2月19日修正
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