生徒の顔面《おもて》に注いだ。省吾なぞから見ると、ずつと夙慧《ませ》た少年で、言ふことは了然《はつきり》好く解る。
『実は、御願ひがあつて上りました。』と前置をして、級長は一同の心情《こゝろもち》を表白《いひあらは》した。何卒《どうか》して彼の教員を引留めて呉れるやうに。仮令《たとへ》穢多であらうと、其様《そん》なことは厭《いと》はん。現に生徒として新平民の子も居る。教師としての新平民に何の不都合があらう。是はもう生徒一同の心からの願ひである。頼む。斯う述べて、級長は頭を下げた。
『校長先生、御願ひでごはす。』
 と一同声を揃へて、各自《てんで》に頭を下げるのであつた。
 其時校長は倚子を離れた。立つて一同の顔を見渡し乍ら、『むゝ、諸君の言ふことは好く解りました。其程熱心に諸君が引留めたいといふ考へなら、そりやあもう我輩だつて出来るだけのことは尽します。しかし物には順序がある。頼みに来るなら、頼みに来るで、相当の手続を踏んで――総代を立てるとか、願書を差出すとかして、規則正しくやつて来るのが礼です。左様どうも諸君のやうに、大勢一緒に押掛けて来て、さあ引留めて呉れなんて――何といふ無作法な行動《やりかた》でせう。』と言はれて、級長は何か弁解《いひわけ》を為《し》ようとしたが、軈《やが》て涙ぐんで黙つて了つた。
『まあ、御聞きなさい。』と校長は卓子《テーブル》の上にある書面《かきつけ》を拡《ひろ》げて見せ乍ら、『是通り瀬川先生からは進退伺が出て居ます。是《これ》は一応郡視学の方へ廻さなければなりませんし、町の学務委員にも見せなければなりません。仮令《たとひ》我輩が瀬川先生を救ひたいと思つて、単独《ひとり》で焦心《あせ》つて見たところで、町の方で聞いて呉れなければ仕方が無いぢや有ませんか。』と言つて、すこし声を和げて、『然し、我輩一人の力で、奈何《どう》是《これ》を処置するといふ訳にもいかんのですから、そこを諸君も好く考へて下さい。彼様《あゝ》いふ良い教師を失ふといふことは、諸君ばかりぢやない、我輩も残念に思ふ。諸君の言ふことは好く解りました。兎に角、今日は是で帰つて、学課を怠らないやうにして下さい。諸君が斯ういふことに喙《くちばし》を容《い》れないでも、無論学校の方で悪いやうには取計ひません――諸君は勉強が第一です。』
 文平は腕組をして聞いて居た。手持無沙汰に帰つて行く生徒の後姿を見送つて、冷かに笑つて、軈て校長は戸を閉めて了つた。


   第弐拾弐章

       (一)

『一寸伺ひますが、瀬川君は是方《こちら》へ参りませんでしたらうか。』
 斯う声を掛けて、敬之進の住居《すまひ》を訪れたのは銀之助である。友達思ひの銀之助は心配し乍ら、丑松の後を追つて尋ねて来たのであつた。
『瀬川さん?』とお志保は飛んで出て、『あれ、今御帰りに成ましたよ。』
『今?』と銀之助はお志保の顔を眺《なが》めた。『それから何《どつち》の方へ行きましたらう、御存じは有ますまいかしら。』
『よくも伺ひませんでしたけれど、』とお志保は口籠《くちごも》つて、『あの、猪子さんの奥様《おくさん》が東京から御見えに成るさうですね。多分その方へ。ホラ市村さんの御宿の方へ尋ねていらしツたんでせうよ――何でも其様《そん》なやうな瀬川さんの口振でしたから。』
『市村さんの許《ところ》へ? 先づ好かつた。』と銀之助は深い溜息を吐いた。『実は僕も非常に心配しましてね、蓮華寺へ行つて聞いて見ました。御寺で言ふには、未だ瀬川君は学校から帰らんといふ。それから市村さんの宿へ行つて見ると、彼処《あすこ》にも居ません。ひよつとすると、こりや貴方《あなた》の許《ところ》かも知れない、斯う思つてやつて来たんです。』と言つて、考へて、『むゝ、左様《さう》ですか、貴方の許へ参りましたか――』
『丁度、行違ひに御成《おなん》なすつたんでせう。』とお志保は少許《すこし》顔を紅《あか》くして、『まあ御上りなすつて下さいませんか、此様《こん》な見苦しい処で御座《ござい》ますけれど。』
 と言はれて、お志保に導かれて、銀之助は炉辺《ろばた》へ上つた。
 紅く泣腫《なきは》れたお志保の頬には涙の痕《あと》が未だ乾かずにあつた。奈何《どう》いふことを言つて丑松が別れて行つたか、それはもうお志保の顔付を眺めたばかりで、大凡《おおよそ》の想像が銀之助の胸に浮ぶ。あの小学校の廊下のところで、人々の前に跪《ひざまづ》いて、有の儘《まゝ》に素性を自白するといふ行為《やりかた》から推《お》して考へても――確かに友達は非常な決心を起したのであらう。其心根は。思へば憫然《びんぜん》なものだ。斯う銀之助は考へて、何卒《どうか》して友達を助けたい、と其をお志保にも話さうと思ふのであつた。銀之助は先づお志保の身の上から聞き
前へ 次へ
全122ページ中113ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング