く河原《かはら》は一面の白い大海を見るやうで、蘆荻《ろてき》も、楊柳も、すべて深く隠れて了《しま》つた。高社、風原、中の沢、其他越後境へ連る多くの山々は言ふも更なり、対岸にある村落と杜《もり》の梢《こずゑ》とすら雪に埋没《うづも》れて、幽《かすか》に鶏の鳴きかはす声が聞える。千曲川は寂しく其間を流れるのであつた。
 斯ういふ光景《ありさま》は今丑松の眼前《めのまへ》に展《ひら》けた。平素《ふだん》は其程注意を引かないやうな物まで一々の印象が強く審《くは》しく眼に映つて見えたり、あるときは又、物の輪郭《かたち》すら朦朧《もうろう》として何もかも同じやうにぐら/\動いて見えたりする。『自分は是《これ》から将来《さき》奈何《どう》しよう――何処へ行つて、何を為よう――一体自分は何の為に是世《このよ》の中へ生れて来たんだらう。』思ひ乱れるばかりで、何の結末《まとまり》もつかなかつた。長いこと丑松は千曲川の水を眺め佇立《たゝず》んで居た。

       (七)

 一生のことを思ひ煩《わづら》ひ乍《なが》ら、丑松は船橋の方へ下りて行つた。誰か斯う背後《うしろ》から追ひ迫つて来るやうな心地《こゝろもち》がして――無論|其様《そん》なことの有るべき筈が無い、と承知して居乍ら――それで矢張安心が出来なかつた。幾度か丑松は背後を振返つて見た。時とすると、妙な眩暈心地《めまひごゝち》に成つて、ふら/\と雪の中へ倒れ懸りさうになる。『あゝ、馬鹿、馬鹿――もつと毅然《しつかり》しないか。』とは自分で自分を叱り※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげま》す言葉であつた。河原の砂の上を降り埋めた雪の小山を上つたり下りたりして、軈《やが》て船橋の畔へ出ると、白い両岸の光景《ありさま》が一層|広濶《ひろ/″\》と見渡される。目に入るものは何もかも――そここゝに低く舞ふ餓《う》ゑた烏の群、丁度川舟のよそほひに忙しさうな船頭、又は石油のいれものを提げて村を指して帰つて行く農夫の群、いづれ冬期の生活《なりはひ》の苦痛《くるしみ》を感ぜさせるやうな光景《ありさま》ばかり。河の水は暗緑の色に濁つて、嘲《あざけ》りつぶやいて、溺《おぼ》れて死ねと言はぬばかりの勢を示し乍ら、川上の方から矢のやうに早く流れて来た。
 深く考へれば考へるほど、丑松の心は暗くなるばかりで有つた。斯《この》社会から捨てられるといふことは、いかに言つても情ない。あゝ放逐――何といふ一生の恥辱《はづかしさ》であらう。もしも左様なつたら、奈何《どう》して是《これ》から将来《さき》生計《くらし》が立つ。何を食つて、何を飲まう。自分はまだ青年だ。望もある、願ひもある、野心もある。あゝ、あゝ、捨てられたくない、非人あつかひにはされたくない、何時迄も世間の人と同じやうにして生きたい――斯う考へて、同族の受けた種々《さま/″\》の悲しい恥、世にある不道理な習慣、『番太』といふ乞食の階級よりも一層《もつと》劣等な人種のやうに卑《いやし》められた今日迄《こんにちまで》の穢多の歴史を繰返した。丑松はまた見たり聞いたりした事実を数へて、あるひは追はれたりあるひは自分で隠れたりした人々、父や、叔父や、先輩や、それから彼の下高井の大尽の心地《こゝろもち》を身に引比べ、終《しまひ》には娼婦《あそびめ》として秘密に売買されるといふ多くの美しい穢多の娘の運命なぞを思ひやつた。
 其時に成つて、丑松は後悔した。何故、自分は学問して、正しいこと自由なことを慕ふやうな、其様《そん》な思想《かんがへ》を持つたのだらう。同じ人間だといふことを知らなかつたなら、甘んじて世の軽蔑を受けても居られたらうものを。何故《なぜ》、自分は人らしいものに斯世の中へ生れて来たのだらう。野山を駆け歩く獣の仲間ででもあつたなら、一生何の苦痛《くるしみ》も知らずに過されたらうものを。
 歓《うれ》し哀《かな》しい過去の追憶《おもひで》は丑松の胸の中に浮んで来た。この飯山へ赴任して以来《このかた》のことが浮んで来た。師範校時代のことが浮んで来た。故郷《ふるさと》に居た頃のことが浮んで来た。それはもう悉皆《すつかり》忘れて居て、何年も思出した先蹤《ためし》の無いやうなことまで、つい昨日の出来事のやうに、青々と浮んで来た。今は丑松も自分で自分を憐まずには居られなかつたのである。軈《やが》て、斯ういふ過去の追憶《おもひで》がごちや/\胸の中で一緒に成つて、煙のやうに乱れて消えて了《しま》ふと、唯二つしか是から将来《さき》に執るべき道は無いといふ思想《かんがへ》に落ちて行つた。唯二つ――放逐か、死か。到底丑松は放逐されて生きて居る気は無かつた。其よりは寧《むし》ろ後者《あと》の方を択《えら》んだのである。
 短い冬の日は何時の間にか暮れかゝつて来た。もう二度と現
前へ 次へ
全122ページ中102ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング