『何故《なぜ》、君は左様《さう》だらう。』と銀之助は同情《おもひやり》の深い言葉を続けた。『僕が斯《か》ういふ科学書生で、平素《しよつちゆう》其方《そつち》の研究にばかり頭を突込んでるものだから、あるひは僕見たやうなものに話したつて解らない、と君は思ふだらう。しかし、君、僕だつて左様冷い人間ぢや無いよ。他《ひと》の手疵《てきず》を負つて苦んで居るのを、傍《はた》で観て嘲笑《わら》つてるやうな、其様《そん》な残酷な人間ぢや無いよ。』
『君はまた妙なことを言ふぢやないか、誰も君のことを残酷だと言つたものは無いのに。』と丑松は臥俯《うつぶし》になつて答へる。
『そんなら僕にだつて話して聞かせて呉れ給へな。』
『話せとは?』
『何も左様君のやうに蔵《つゝ》んで居る必要は有るまいと思ふんだ。言はないから、其で君は余計に苦しいんだ。まあ、僕も、一時は研究々々で、あまり解剖的にばかり物事を見過ぎて居たが、此頃に成つて大に悟つたことが有る。それからずつと君の心情《こゝろもち》も解るやうに成つた。何故君があの蓮華寺へ引越したか、何故《なぜ》君が其様に独りで苦んで居るか――僕はもう何もかも察して居る。』
丑松は答へなかつた。銀之助は猶《なほ》言葉を継《つ》いで、
『校長先生なぞに言はせると、斯ういふことは三文の価値《ねうち》も無いね。何ぞと言ふと、直に今の青年の病気だ。しかし、君、考へて見給へ。彼先生だつて一度は若い時も有つたらうぢやないか。自分等は鼻唄で通り越して置き乍ら、吾儕《われ/\》にばかり裃《かみしも》を着て歩けなんて――はゝゝゝゝ、まあ君、左様《さう》ぢや無いか。だから僕は言つて遣《や》つたよ。今日|彼《あの》先生と郡視学とで僕を呼付けて、「何故《なぜ》瀬川君は彼様《あゝ》考へ込んで居るんだらう」と斯う聞くから、「其は貴方等《あなたがた》も覚えが有るでせう、誰だつて若い時は同じことです」と言つて遣つたよ。』
『フウ、左様かねえ、郡視学が其様なことを聞いたかねえ。』
『見給へ、君があまり沈んでるもんだから、つまらないことを言はれるんだ――だから君は誤解されるんだ。』
『誤解されるとは?』
『まあ、君のことを新平民だらうなんて――実に途方も無いことを言ふ人も有れば有るものだ。』
『はゝゝゝゝ。しかし、君、僕が新平民だとしたところで、一向差支は無いぢやないか。』
長いこと室の内には声が無かつた。細目に点けて置いた洋燈《ランプ》の光は天井へ射して、円く朦朧《もうろう》と映つて居る。銀之助は其を熟視《みつ》め乍ら、種々《いろ/\》空想を描いて居たが、あまり丑松が黙つて了つて身動きも為ないので、終《しまひ》には友達は最早《もう》眠つたのかとも考へた。
『瀬川君、最早|睡《ね》たのかい。』と声を掛けて見る。
『いゝや――未《ま》だ起きてる。』
丑松は息を殺して寝床の上に慄《ふる》へて居たのである。
『妙に今夜は眠られない。』と銀之助は両手を懸蒲団の上に載せて、『まあ、君、もうすこし話さうぢやないか。僕は青年時代の悲哀《かなしみ》といふことを考へると、毎時《いつも》君の為に泣きたく成る。愛と名――あゝ、有為な青年を活すのも其だし、殺すのも其だ。実際、僕は君の心情を察して居る。君の性分としては左様《さう》あるべきだとも思つて居る。君の慕つて居る人に就いても、蔭乍《かげなが》ら僕は同情を寄せて居る。其だから今夜は斯様《こん》なことを言出しもしたんだが、まあ、僕に言はせると、あまり君は物を六《むづ》ヶ|敷《しく》考へ過ぎて居るやうに思はれるね。其処だよ、僕が君に忠告したいと思ふことは。だつて君、左様ぢや無いか。何も其様に独りで苦んでばかり居なくたつても好からう。友達といふものが有つて見れば、そこはそれ相談の仕様によつて、随分道も開けるといふものさ――「土屋、斯《か》う為たら奈何《どう》だらう」とか何とか、君の方から切出して呉れると、及ばず乍ら僕だつて自分の力に出来る丈のことは尽すよ。』
『あゝ、左様《さう》言つて呉れるのは君ばかりだ。君の志は実に難有《ありがた》い。』と丑松は深い溜息を吐いた。『まあ、打開けて言へば、君の察して呉れるやうなことが有つた。確かに有つた。しかし――』
『ふむ。』
『君はまだ克《よ》く事情を知らないから、其で左様言つて呉れるんだらうと思ふんだ。実はねえ――其人は最早死んで了《しま》つたんだよ。』
復《ま》た二人は無言に帰つた。やゝしばらくして、銀之助は声を懸けて見たが、其時はもう返事が無いのであつた。
(四)
銀之助の送別会は翌日《あくるひ》の午前から午後の二時頃迄へ掛けて開らかれた。昼を中へ※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]んだは、弁当がはりに鮨《すし》の折詰
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