め》るやうに言つた。
『否《いや》、僕は決して激しては居ない。』斯《か》う丑松は答へた。
『しかし。』と文平は冷笑《あざわら》つて、『猪子蓮太郎だなんて言つたつて、高が穢多ぢやないか。』
『それが、君、奈何した。』と丑松は突込んだ。
『彼様《あん》な下等人種の中から碌《ろく》なものゝ出よう筈が無いさ。』
『下等人種?』
『卑劣《いや》しい根性を持つて、可厭《いや》に癖《ひが》んだやうなことばかり言ふものが、下等人種で無くて君、何だらう。下手に社会へ突出《でしやば》らうなんて、其様な思想《かんがへ》を起すのは、第一大間違さ。獣皮《かは》いぢりでもして、神妙《しんべう》に引込んでるのが、丁度彼の先生なぞには適当して居るんだ。』
『はゝゝゝゝ。して見ると、勝野君なぞは開化した高尚な人間で、猪子先生の方は野蛮な下等な人種だと言ふのだね。はゝゝゝゝ。僕は今迄、君も彼の先生も、同じ人間だとばかり思つて居た。』
『止せ。止せ。』と銀之助は叱るやうにして、『其様な議論を為たつて、つまらんぢやないか。』
『いや、つまらなかない。』と丑松は聞入れなかつた。『僕は君、是《これ》でも真面目《まじめ》なんだよ。まあ、聞き給へ――勝野君は今、猪子先生のことを野蛮だ下等だと言はれたが、実際御説の通りだ。こりや僕の方が勘違ひをして居た。左様だ、彼の先生も御説の通りに獣皮《かは》いぢりでもして、神妙にして引込んで居れば好いのだ。それさへして黙つて居れば、彼様な病気なぞに罹《かゝ》りはしなかつたのだ。その身体のことも忘れて了つて、一日も休まずに社会と戦つて居るなんて――何といふ狂人《きちがひ》の態《ざま》だらう。噫《あゝ》、開化した高尚な人は、予《あらかじ》め金牌を胸に掛ける積りで、教育事業なぞに従事して居る。野蛮な、下等な人種の悲しさ、猪子先生なぞは其様な成功を夢にも見られない。はじめからもう野末の露と消える覚悟だ。死を決して人生の戦場に上つて居るのだ。その慨然とした心意気は――はゝゝゝゝ、悲しいぢやないか、勇しいぢやないか。』
と丑松は上歯を顕《あらは》して、大きく口を開いて、身を慄《ふる》はせ乍ら欷咽《すゝりな》くやうに笑つた。欝勃《うつぼつ》とした精神は体躯《からだ》の外部《そと》へ満ち溢《あふ》れて、額は光り、頬の肉も震へ、憤怒と苦痛とで紅く成つた時は、其の粗野な沈欝な容貌が平素《いつも》よりも一層《もつと》男性《をとこ》らしく見える。銀之助は不思議さうに友達の顔を眺めて、久し振で若く剛《つよ》く活々とした丑松の内部《なか》の生命《いのち》に触れるやうな心地《こゝろもち》がした。
対手が黙つて了《しま》つたので、丑松もそれぎり斯様《こん》な話をしなかつた。文平はまた何時までも心の激昂を制《おさ》へきれないといふ様子。頭ごなしに罵《のゝし》らうとして、反《かへ》つて丑松の為に言敗《いひまく》られた気味が有るので、軽蔑《けいべつ》と憎悪《にくしみ》とは猶更《なほさら》容貌の上に表れる。『何だ――この穢多めが』とは其の怒気《いかり》を帯びた眼が言つた。軈て文平は尋常一年の教師を窓の方へ連れて行つて、
『奈何《どう》だい、君、今の談話《はなし》は――瀬川君は最早《もう》悉皆《すつかり》自分で自分の秘密を自白したぢやないか。』
斯《か》う私語《さゝや》いて聞かせたのである。
丁度準教員は鉛筆写生を終つた。人々はいづれも其|周囲《まはり》へ集つた。
第拾九章
(一)
この大雪を衝《つ》いて、市村弁護士と蓮太郎の二人が飯山へ乗込んで来る、といふ噂《うはさ》は学校に居る丑松の耳にまで入つた。高柳一味の党派は、斯《こ》の風説に驚かされて、今更のやうに防禦《ばうぎよ》を始めたとやら。有権者の訪問、推薦状の配付、さては秘密の勧誘なぞが頻《しきり》に行はれる。壮士の一群《ひとむれ》は高柳派の運動を助ける為に、既に町へ入込んだともいふ。選挙の上の争闘《あらそひ》は次第に近いて来たのである。
其日は宿直の当番として、丑松銀之助の二人が学校に居残ることに成つた。尤《もつと》も銀之助は拠《よんどころ》ない用事が有ると言つて出て行つて、日暮になつても未だ帰つて来なかつたので、日誌と鍵とは丑松が預つて置いた。丑松は絶えず不安の状態《ありさま》――暇さへあれば宿直室の畳の上に倒れて、独りで考へたり悶《もだ》えたりしたのである。冬の一日《ひとひ》は斯ういふ苦しい心づかひのうちに過ぎた。入相《いりあひ》を告げる蓮華寺の鐘の音が宿直室の玻璃窓《ガラスまど》に響いて聞える頃は、殊《こと》に烈しい胸騒ぎを覚えて、何となくお志保の身の上も案じられる。もし奥様の決心がお志保の方に解りでもしたら――あるひは、最早《もう》解つて居るのかも知れない――左様なると、娘の身
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