とを考へて、自分で自分を慰めた。蓮華寺の山門に近《ちかづ》いた頃は、灰色の雲が低く垂下つて来て、復《ま》た雪になるらしい空模様であつた。蒼然《さうぜん》とした暮色は、たゞさへ暗い丑松の心に、一層の寂しさ味気なさを添へる。僅かに天の一方にあたつて、遠く深く紅《くれなゐ》を流したやうなは、沈んで行く夕日の反射したのであらう。
宵の勤行《おつとめ》の鉦《かね》の音は一種異様な響を丑松の耳に伝へるやうに成つた。それは最早《もう》世離れた精舎《しやうじや》の声のやうにも聞えなかつた。今は梵音《ぼんおん》の難有味《ありがたさ》も消えて、唯同じ人間世界の情慾の声、といふ感想《かんじ》しか耳の底に残らない。丑松は彼の敬之進の物語を思ひ浮べた。住職を卑しむ心は、卑しむといふよりは怖れる心が、胸を衝《つ》いて湧上つて来る。しかしお志保は其程|香《か》のある花だ、其程人を※[#「女+無」、第4水準2−5−80]《ひきつ》ける女らしいところが有るのだ、と斯う一方から考へて見て、いよ/\其人を憐むといふ心地《こゝろもち》に成つたのである。
蓮華寺の内部《なか》の光景《ありさま》――今は丑松も明に其真相を読むことが出来た。成程《なるほど》、左様言はれて見ると、それとない物の端《はし》にも可傷《いたま》しい事実は顕れて居る。左様《さう》言はれて見ると、始めて丑松が斯の寺へ引越して来た時のやうな家庭の温味《あたゝかさ》は何時の間にか無くなつて了つた。
二階へ通ふ廊下のところで、丑松はお志保に逢《あ》つた。蒼《あを》ざめて死んだやうな女の顔付と、悲哀《かなしみ》の溢《あふ》れた黒眸《くろひとみ》とは――たとひ黄昏時《たそがれどき》の仄《ほの》かな光のなかにも――直に丑松の眼に映る。お志保も亦《ま》た不思議さうに丑松の顔を眺めて、丁度|喪心《さうしん》した人のやうな男の様子を注意して見るらしい。二人は眼と眼を見交したばかりで、黙つて会釈《ゑしやく》して別れたのである。
自分の部屋へ入つて見ると、最早そこいらは薄暗かつた。しかし丑松は洋燈《ランプ》を点けようとも為なかつた。長いこと茫然として、独りで暗い部屋の内に座《すわ》つて居た。
(六)
『瀬川さん、御勉強ですか。』
と声を掛けて、奥様が入つて来たのは、それから二時間ばかり経《た》つてのこと。丑松の机の上には、日々《にち/\》の思想《かんがへ》を記入《かきい》れる仮綴の教案簿なぞが置いてある。黄ばんだ洋燈《ランプ》の光は夜の空気を寂《さみ》しさうに照して、思ひ沈んで居る丑松の影を古い壁の方へ投げた。煙草《たばこ》のけむりも薄く籠《こも》つて、斯《こ》の部屋の内を朦朧《もうろう》と見せたのである。
『何卒《どうぞ》私に手紙を一本書いて下さいませんか――済《す》みませんが。』
と奥様は、用意して来た巻紙状袋を取出し乍ら、丑松の返事を待つて居る。其様子が何となく普通《たゞ》では無い、と丑松も看《み》て取つて、
『手紙を?』と問ひ返して見た。
『長野の寺院《てら》に居る妹のところへ遣《や》りたいのですがね、』と奥様は少許《すこし》言淀《いひよど》んで、『実は自分で書かうと思ひまして、書きかけては見たんです。奈何《どう》も私共の手紙は、唯長くばかり成つて、肝心《かんじん》の思ふことが書けないものですから。寧《いつ》そこりや貴方《あなた》に御願ひ申して、手短く書いて頂きたいと思ひまして――どうして女の手紙といふものは斯う用が達《もと》らないのでせう。まあ、私は何枚書き損つたか知れないんですよ――いえ、なに、其様《そんな》に煩《むづか》しい手紙でも有ません。唯解るやうに書いて頂きさへすれば好いのですから。』
『書きませう。』と丑松は簡短に引受けた。
斯答《このこたへ》に力を得て、奥様は手紙の意味を丑松に話した。一身上のことに就いて相談したい――是《この》手紙|着次第《ちやくしだい》、是非々々々々出掛けて来るやうに、と書いて呉れと頼んだ。蟹沢から飯山迄は便船も発《た》つ、もし舟が嫌なら、途中迄車に乗つて、それから雪橇に乗替へて来るやうに、と書いて呉れと頼んだ。今度といふ今度こそは絶念《あきら》めた、自分はもう離縁する考へで居る、と書いて呉れと頼んだ。
『他の人とは違つて、貴方ですから、私も斯様《こん》なことを御願ひするんです。』と言ふ奥様の眼は涙ぐんで来たのである。『訳を御話しませんから、不思議だと思つて下さるかも知れませんが――』
『いや。』と丑松は対手《あひて》の言葉を遮《さへぎ》つた。『私も薄々聞きました――実は、あの風間さんから。』
『ホウ、左様《さう》ですか。敬之進さんから御聞きでしたか。』と言つて、奥様は考深い目付をした。
『尤《もつと》も、左様|委敷《くはし》い事は私も知らないんで
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