》い洗《すゝ》ぎ湯《ゆ》の中へ足を浸した時の其丑松の心地は奈何《どんな》であつたらう。唯《たゞ》――お志保の姿が見えないのは奈何したか。人々の情を嬉敷《うれしく》思ふにつけても、丑松は心に斯《か》う考へて、何となく其人の居ないのが物足りなかつた。
 其時、白衣《びやくえ》に袈裟《けさ》を着けた一人の僧が奥の方から出て来た。奥様の紹介《ひきあはせ》で、丑松は始めて蓮華寺の住職を知つた。聞けば、西京から、丑松の留守中に帰つたといふ。丁度町の檀家《だんか》に仏事が有つて、これから出掛けるところとやら。住職は一寸丑松に挨拶して、寺内の僧を供に連れて出て行つた。
 夕飯《ゆふはん》は蔵裏の下座敷であつた。人々は丑松を取囲《とりま》いて、旅の疲労《つかれ》を言慰めたり、帰省の様子を尋ねたりした。煤けた古壁によせて、昔からあるといふ衣桁《えかう》には若い人の着るものなぞが無造作に懸けてある。其晩は学校友達の婚礼とかで、お志保も招ばれて行つたとのこと。成程《なるほど》左様《さう》言はれて見ると、其人の平常衣《ふだんぎ》らしい。亀甲綛《きつかふがすり》の書生羽織に、縞《しま》の唐桟《たうざん》を重ね、袖だゝみにして折り懸け、長襦袢《ながじゆばん》の色の紅梅を見るやうなは八口《やつくち》のところに美しくあらはれて、朝に晩に肌身に着けるものかと考へると、その壁の模様のやうに動かずにある着物が一層《ひとしほ》お志保を可懐《なつか》しく思出させる。のみならず、五分心の洋燈《ランプ》のひかりは香の煙に交る室内の空気を照らして、物の色艶なぞを奥床しく見せるのであつた。
 さま/″\の物語が始まつた。驚き悲しむ人々を前に置いて、丑松は実地自分が歴《へ》て来た旅の出来事を語り聞かせた。種牛の為に傷けられた父の最後、番小屋で明した山の上の一夜、牧場の葬式、谷蔭の墓、其他草を食ひ塩を嘗《な》め谷川の水を飲んで烏帽子《ゑぼし》ヶ|嶽《だけ》の麓に彷徨《さまよ》ふ牛の群のことを話した。丑松は又、上田の屠牛場《とぎうば》のことを話した。其小屋の板敷の上には種牛の血汐が流れた光景《ありさま》を話した。唯、蓮太郎夫婦に出逢つたこと、別れたこと、それから飯山へ帰る途中川舟に乗合した高柳夫婦――就中《わけても》、あの可憐《あはれ》な美しい穢多の女の身の上に就いては、決して一語《ひとこと》も口外しなかつた。
 斯うして帰省中のいろ/\を語り聞かせて居るうちに、次第に丑松は一種不思議な感想《かんじ》を起すやうに成つた。それは、丑松の積りでは、対手が自分の話を克《よ》く聞いて居て呉れるのだらうと思つて、熱心になつて話して居ると、どうかすると奥様の方では妙な返事をして、飛んでも無いところで『え?』なんて聞き直して、何か斯う話を聞き乍ら別の事でも考へて居るかのやうに――まあ、半分は夢中で応対《うけこたへ》をして居るのだと感づいた。終《しまひ》には、対手が何にも自分の話を聞いて居ないのだといふことを発見《みいだ》した。しばらく丑松は茫然《ぼんやり》として、穴の開くほど奥様の顔を熟視《みまも》つたのである。
 克く見れば、奥様は両方の※[#「目+匡」、第3水準1−88−81]《まぶち》を泣腫《なきは》らして居る。唯さへ気の短い人が余計に感じ易く激し易く成つて居る。言ふに言はれぬ心配なことでも起つたかして、時々深い憂愁《うれひ》の色が其顔に表はれたり隠れたりした。一体、是《これ》は奈何《どう》したのであらう。聞いて見れば留守中、別に是ぞと変つた事も無かつた様子。銀之助は親切に尋ねて呉れたといふし、文平は克《よ》く遊びに来て話して行くといふ。それから斯の寺の方から言へば、住職が帰つたといふことより外に、何も新しい出来事は無かつたらしい。それにしても斯の内部《なか》の様子の何処となく平素《ふだん》と違ふやうに思はれることは。
 軈《やが》て袈裟治は二階へ上つて行つて、部屋の洋燈《ランプ》を点《つ》けて来て呉れた。お志保はまだ帰らなかつた。
『奈何《どう》したんだらう、まあ彼の奥様の様子は。』
 斯う胸の中で繰返し乍ら、丑松は暗い楼梯《はしごだん》を上つた。
 其晩は遅く寝た。過度の疲労に刺激されて、反《かへ》つて能《よ》く寝就かれなかつた。例の癖で、頭を枕につけると、またお志保のことを思出した。尤も何程《いくら》心に描いて見ても、明瞭《あきらか》に其人が浮んだためしは無い。どうかすると、お妻と混同《ごつちや》になつて出て来ることも有る。幾度か丑松は無駄骨折をして、お志保の俤を捜さうとした。瞳を、頬を、髪のかたちを――あゝ、何処を奈何《どう》捜して見ても、何となく其処に其人が居るとは思はれ乍ら、それで奈何しても統一《まとまり》が着かない。時としては彼《あ》のつつましさうに物言ふ声を、時としては彼の口
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