人々は意味もなく笑つた。見物して居る女教師も微笑《ほゝゑ》んだ。文平|贔顧《びいき》の校長は、丑松の組に勝たせたくないと思ふかして、熱心になつて窓から眺《なが》めて居た。丁度午後の日を背後《うしろ》にしたので、位置の利は始めから文平の組の方にあつた。
『壱《ワン》、零《ゼロ》。』
 と呼ぶのは、網の傍に立つ審判官の銀之助である。丑松仙太は先づ第一の敗を取つた。見物して居る生徒は、いづれも冷笑を口唇《くちびる》にあらはして、仙太の敗を喜ぶやうに見えた。
『弐《ツウ》、零《ゼロ》。』
 と銀之助は高く呼んだ。丑松の組は第二の敗を取つたのである。『弐《ツウ》、零《ゼロ》。』と見物の生徒は聞えよがしに繰返した。
 敵方といふのは、年若な準教員――それ、丑松が蓮華寺へ明間《あきま》を捜しに行つた時、帰路《かへり》に遭遇《であ》つた彼男と、それから文平と、斯う二人の組で、丑松に取つては侮《あなど》り難い相手であつた。それに、敵方の力は揃つて居るに引替へ、味方の仙太はまだ一向に練習が足りない。
『参《スリイ》、零《ゼロ》。』
 と呼ぶ声を聞いた時は、丑松もすこし気を苛《いら》つた。人種と人種の競争――それに敗《ひけ》を取るまいといふ丑松の意気が、何となく斯様《こん》な遊戯の中にも顕《あら》はれるやうで、『敗《まけ》るな、敗けるな』と弱い仙太を激※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]《はげ》ますのであつた。丑松は撃手《サアブ》。最後の球を打つ為に、外廓《そとぐるわ》の線の一角に立つた。『さあ、来い』と言はぬばかりの身構へして、窺《うかゞ》ひ澄まして居る文平を目がけて、打込んだ球はかすかに網に触れた。『触《タッチ》』と銀之助の一声。丑松は二度目の球を試みた。力あまつて線を越えた。ああ、『落《フオウル》』だ。丑松も今は怒気を含んで、満身の力を右の腕に籠め乍ら、勝つも負けるも運は是球一つにあると、打込む勢は獅子奮進。青年の時代に克《よ》くある一種の迷想から、丁度一生の運命を一時の戯《たはむれ》に占ふやうに見える。『内《イン》』と受けた文平もさるもの。故意《わざ》と丑松の方角を避けて、うろ/\する仙太の虚《すき》を衝《つ》いた。烈しい日の光は真正面《まとも》に射して、飛んで来る球のかたちすら仙太の目には見えなかつたのである。
『勝負有《ゲエム》。』
 と人々は一音に叫んだ。仙太の手から打球板《ラッケット》を奪ひ取らうとした少年なぞは、手を拍《う》つて、雀躍《こをどり》して、喜んだ。思はず校長も声を揚げて、文平の勝利を祝ふといふ風であつた。
『瀬川君、零敗《ゼロまけ》とはあんまりぢやないか。』
 といふ銀之助の言葉を聞捨てゝ、丑松はそこに置いた羽織を取上げながら、すご/\と退いた。やがて斯《こ》の運動場《うんどうば》から裏庭の方へ廻つて、誰も見て居ないところへ来ると、不図何か思出したやうに立留つた。さあ、丑松は自分で自分を責めずに居られなかつたのである。蓮太郎――大日向――それから仙太、斯う聯想した時は、猜疑《うたがひ》と恐怖《おそれ》とで戦慄《ふる》へるやうになつた。噫《あゝ》、意地の悪い智慧《ちゑ》はいつでも後から出て来る。


   第六章

       (一)

 天長節の夜は宿直の当番であつたので、丑松銀之助の二人は学校に残つた。敬之進は急に心細く、名残惜しくなつて、いつまでも此処を去り兼ねる様子。夕飯の後、まだ宿直室に話しこんで、例の愚痴の多い性質から、生先《おひさき》長い二人に笑はれて居るうちに、壁の上の時計は八時打ち、九時打つた。それは翌朝《よくあさ》の霜の烈しさを思はせるやうな晩で、日中とは違つて、めつきり寒かつた。丑松が見廻りの為に出て行つた後、まだ敬之進は火鉢の傍に齧《かじ》り付いて、銀之助を相手に掻口説《かきくど》いて居た。
 軈《やが》て二十分ばかり経つて丑松は帰つて来た。手提洋燈《てさげランプ》を吹消して、急いで火鉢の側《わき》に倚添ひ乍ら、『いや、もう屋外《そと》は寒いの寒くないのツて、手も何も凍《かじか》んで了ふ――今夜のやうに酷烈《きび》しいことは今歳《ことし》になつて始めてだ。どうだ、君、是通りだ。』と丑松は氷のやうに成つた手を出して、銀之助に触つた。『まあ、何といふ冷い手だらう。』斯《か》う言つて、自分の手を引込まして、銀之助は不思議さうに丑松の顔を眺めたのである。
『顔色が悪いねえ、君は――奈何《どう》かしやしないか。』
 と思はず其を口に出した。敬之進も同じやうに不審を打つて、
『我輩も今、其を言はうかと思つて居たところさ。』
 丑松は何か思出したやうに慄へて、話さうか、話すまいか、と暫時《しばらく》躊躇《ちうちよ》する様子にも見えたが、あまり二人が熱心に自分の顔を熟視《みまも》るので、つい/\打明けずに
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