す。成程《なるほど》、学問の上には階級の差別も御座《ござい》ますまい。そこがそれ、迷信の深い土地柄で。左様いふ美しい思想《かんがへ》を持つた人は鮮少《すくな》いものですから――』
『どうも未《ま》だそこまでは開けませんのですな。』と薄痘痕の議員が言つた。
『ナニ、それも、猪子先生のやうに飛抜けて了へば、また人が許しもするんですよ。』と白髯の議員は引取つて、『其証拠には、宿屋でも平気で泊めますし、寺院《てら》でも本堂を貸しますし、演説を為《す》るといへば人が聴きにも出掛けます。彼《あの》先生のは可厭《いや》に隠蔽《かく》さんから可《いゝ》。最初からもう名乗つてかゝるといふ遣方ですから、左様《さう》なると人情は妙なもので、むしろ気の毒だといふ心地《こゝろもち》に成る。ところが、瀬川先生や高柳君の細君のやうに、其を隠蔽《かく》さう/\とすると、余計に世間の方では厳《やかま》しく言出して来るんです。』
『大きに――』と郡視学は同意を表した。
『どうでせう、御転任といふやうなことにでも願つたら。』と金縁眼鏡の議員は人々の顔を眺め廻した。
『転任ですか。』と郡視学は仔細らしく、『兎角《とかく》条件附の転任は巧くいきませんよ。それに、斯《か》ういふことが世間へ知れた以上は、何処《どこ》の学校だつても嫌がりますさ――先づ休職といふものでせう。』
『奈何《どう》なりとも、そこは貴方の御意見通りに。』と白髯の議員は手を擦《も》み乍ら言つた。『町会議員の中には、「怪しからん、直に追出して了へ」なんて、其様な暴論を吐くやうな手合も有るといふ場合ですから――何卒《どうか》まあ、何分|宜敷《よろしい》やうに、御取計ひを。』

       (六)

 兎《と》に角《かく》其日の授業だけは無事に済した上で、と丑松は湧上《わきあが》るやうな胸の思を制《おさ》へ乍《なが》ら、三時間目の習字を教へた。手習ひする生徒の背後《うしろ》へ廻つて、手に手を持添へて、漢字の書方なぞを注意してやつた時は、奈何《どんな》に其筆先がぶる/\と震へたらう。周囲《まはり》の生徒はいづれも伸《の》しかかつて眺《なが》めて、墨だらけな口を開いて笑ふのであつた。
 小使の振鳴す大鈴の音が三時間目の終を知らせる頃には、最早《もう》郡視学も、町会議員も帰つて了つた。師範校の生徒は猶《なほ》残つて午後の授業をも観たいといふ。昼飯《ひ
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