けられると見られても可《いゝ》――兎《と》に角《かく》、君は君で働き、僕は僕で働くのだ。」斯ういふものだから、其程熱心に成つて居るものを強ひて廃《よ》し給へとも言はれんし、折角の厚意を無にしたくないと思つて、それで一緒に歩いたやうな訳さ。今になつて見ると、噫《あゝ》、あの細君に合せる顔が無い。「奥様《おくさん》、其様に御心配なく、猪子君は確かに御預りしましたから」なんて――まあ我輩は奈何《どう》して御詑《おわび》をして可《いゝ》か解らん。』
斯う言つて、萎《しを》れて、肥大な弁護士は洋服の儘《まゝ》でかしこまつて居た。其時は最早《もう》この扇屋に泊る旅人も皆な寝て了つて、たゞさへ気の遠くなるやうな冬の夜が一層《ひとしほ》の寂しさを増して来た。日頃新平民と言へば、直に顔を皺《しか》めるやうな手合にすら、蓮太郎ばかりは痛み惜まれたので、殊に其悲惨な最後が深い同情の念を起させた。『警察だつても黙つて置くもんぢや無い。見給へ、きつと最早《もう》高柳の方へ手が廻つて居るから。』と人々は互に言合ふのであつた。
見れば見るほど、聞けば聞くほど、丑松は死んだ先輩に手を引かれて、新しい世界の方へ連れて行かれるやうな心地がした。告白――それは同じ新平民の先輩にすら躊躇《ちうちよ》したことで、まして社会の人に自分の素性を暴露《さらけだ》さうなぞとは、今日迄《こんにちまで》思ひもよらなかつた思想《かんがへ》なのである。急に丑松は新しい勇気を掴《つか》んだ。どうせ最早今迄の自分は死んだものだ。恋も捨てた、名も捨てた――あゝ、多くの青年が寝食を忘れる程にあこがれて居る現世の歓楽、それも穢多の身には何の用が有らう。一新平民――先輩が其だ――自分も亦た其で沢山だ。斯う考へると同時に、熱い涙は若々しい頬を伝つて絶間《とめど》も無く流れ落ちる。実にそれは自分で自分を憐むといふ心から出た生命《いのち》の汗であつたのである。
いよ/\明日は、学校へ行つて告白《うちあ》けよう。教員仲間にも、生徒にも、話さう。左様だ、其を為るにしても、後々までの笑草なぞには成らないやうに。成るべく他《ひと》に迷惑を掛けないやうに。斯う決心して、生徒に言つて聞かせる言葉、進退伺に書いて出す文句、其他|種々《いろ/\》なことまでも想像して、一夜を人々と一緒に蓮太郎の遺骸《なきがら》の前で過したのであつた。彼是《かれこれ》す
前へ
次へ
全243ページ中212ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング