しかた》の娘の声であらう。これも亦《また》、招《よ》ばれて行く妓《こ》と見え、箱屋一人連れ、褄《つま》高く取つて、いそ/\と二人の前を通過ぎた。
客の笑声は手に取るやうに聞えた。其中には校長や郡視学の声も聞えた。人々は飲んだり食つたりして時の移るのも知らないやうな様子。
『瀬川君、大層陽気ぢやないか。』と敬之進は声を潜《ひそ》めて、『や、大一座《おほいちざ》だ。一体|今宵《こんや》は何があるんだらう。』
『まだ風間さんには解らないんですか。』と丑松も聞耳を立て乍ら言つた。
『解らないさ。だつて我輩は何《なん》にも知らないんだもの。』
『ホラ、校長先生の御祝でさあね。』
『むゝ――むゝ――むゝ、左様《さう》ですかい。』
一曲の唄が済んで、盛な拍手が起つた。また盃の交換《やりとり》が始つたらしい。若い女の声で、『姉さん、お銚子』などと呼び騒ぐのを聞捨てゝ、丑松敬之進の二人は三浦屋の側《わき》を横ぎつた。
車は知らない中に前《さき》へ行つて了つた。次第に歌舞の巷を離れると、太鼓の音も遠く聞えなくなる。敬之進は嘆息したり、沈吟したりして、時々絶望した人のやうに唐突《だしぬけ》に大きな声を出して笑つた。『浮世《ふせい》夢のごとし』――それに勝手な節を付けて、低声に長く吟じた時は、聞いて居る丑松も沈んで了つて、妙に悲しいやうな、可痛《いたま》しいやうな心地《こゝろもち》になつた。
『吟声|調《てう》を成さず――あゝ、あゝ、折角《せつかく》の酒も醒めて了つた。』
と敬之進は嘆息して、獣の呻吟《うな》るやうな声を出し乍ら歩く。丑松も憐んで、軈て斯う尋ねて見た。
『風間さん、貴方は何処迄行くんですか。』
『我輩かね。我輩は君を送つて、蓮華寺の門前まで行くのさ。』
『門前迄?』
『何故《なぜ》我輩が門前迄送つて行くのか、其は君には解るまい。しかし其を今君に説明しようとも思はないのさ。御互ひに長く顔を見合せて居ても、斯うして親《ちか》しくするのは昨今だ。まあ、いつか一度、君とゆつくり話して見たいもんだねえ。』
やがて蓮華寺の山門の前まで来ると、ぷいと敬之進は別れて行つて了つた。奥様は蔵裏《くり》の外まで出迎へて喜ぶ。車はもうとつくに。荷物は寺男の庄太が二階の部屋へ持運んで呉れた。台所で焼く魚のにほひは、蔵裏迄も通つて来て、香の煙に交つて、住慣《すみな》れない丑松の心に一種異様の
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