はさも得意で居るらしい。
『それはまあ何よりだつた。失礼ながら、奥様《おくさん》は? 矢張《やはり》東京の方からでも?』
『はあ。』
この『はあ』が丑松を笑はせた。
談話《はなし》の様子で見ると、高柳夫婦は東京の方へ廻つて、江の島、鎌倉あたりを見物して来て、是から飯山へ乗込むといふ寸法らしい。そこは抜目の無い、細工の多い男だから、根津から直に引返すやうなことを為《し》ないで、わざ/\遠廻りして帰つて来たものと見える。さて、坊主を捕《つかま》へて、片腹痛いことを吹聴《ふいちやう》し始めた。聞いて居る丑松には其心情の偽《いつはり》が読め過ぎるほど読めて、終《しまひ》には其処に腰掛けても居られないやうになつた。『恐しい世の中だ』――斯う考へ乍ら、あの夫婦の暗い秘密を自分の身に引比べると、さあ何となく気懸りでならない。やがて、故意《わざ》と無頓着な様子を装《つくろ》つて、ぶらりと休茶屋の外へ出て眺めた。
霙《みぞれ》は絶えず降りそゝいで居た。あの越後路から飯山あたりへかけて、毎年《まいとし》降る大雪の前駆《さきぶれ》が最早やつて来たかと思はせるやうな空模様。灰色の雲は対岸に添ひ徊徘《さまよ》つた、広濶《ひろ/″\》とした千曲川の流域が一層遠く幽《かすか》に見渡される。上高井の山脈、菅平の高原、其他畳み重なる多くの山々も雪雲に埋没《うづも》れて了《しま》つて、僅かに見えつ隠れつして居た。
斯うして茫然《ばうぜん》として、暫時《しばらく》千曲川の水を眺めて居たが、いつの間にか丑松の心は背後《うしろ》の方へ行つて了つた。幾度か丑松は振返つて二人の様子を見た。見まい/\と思ひ乍ら、つい見た。丁度乗船の切符を売出したので、人々は皆な争つて買つた。間も無く船も出るといふ。混雑する旅人の群に紛《まぎ》れて、先方《さき》の二人も亦た時々盗むやうに是方《こちら》の様子を注意するらしい――まあ、思做《おもひなし》の故《せゐ》かして、すくなくとも丑松には左様《さう》酌《と》れたのである。女の方で丑松を知つて居るか、奈何か、それは克《よ》く解らないが、丑松の方では確かに知つて居る。髪のかたちこそ新婚の人のそれに結ひ変へては居るが、紛れの無い六左衛門の娘、白いもの花やかに彩色《いろどり》して恥の面を塗り隠し、野心深い夫に倚添《よりそ》ひ、崖《がけ》にある坂路をつたつて、舟に乗るべきところへ下
前へ
次へ
全243ページ中122ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング