心から産出《うみだ》した幻だ。』
『幻?』
『所謂《いはゆる》疑心暗鬼といふ奴だ。耳に聞える幻――といふのも少許《すこし》変な言葉だがね、まあ左様《さう》いふことも言へるとしたら、其が今夜君の聞いたやうな声なんだ。』
『あるひは左様《さう》かも知れない。』
 暫時《しばらく》、三人は無言になつた。天も地も※[#「門<貝」、第4水準2−91−57]《しん》として、声が無かつた。急に是の星夜の寂寞《せきばく》を破つて、父の呼ぶ声が丑松の耳の底に響いたのである。
『丑松、丑松。』
 と次第に幽《かすか》になつて、啼《な》いて空を渡る夜の鳥のやうに、終《しまひ》には遠く細く消えて聞えなくなつて了つた。
『瀬川君。』と銀之助は手提洋燈をさしつけて、顔色を変へた丑松の様子を不思議さうに眺め乍ら、『どうしたい――君は。』
『今、また阿爺《おやぢ》の声がした。』
『今? 何にも聞えやしなかつたぢやないか。』
『ホウ、左様《さう》かねえ。』
『左様かねえもないもんだ。何《なんに》も声なぞは聞えやしないよ。』と言つて、銀之助は敬之進の方へ向いて、『風間さん、奈何《どう》でした――何か貴方には聞えましたか。』
『いゝえ。』と敬之進も力を入れた。
『ホウラ。風間さんにも聞えなければ、僕にも聞えない。聞いたのは、唯君ばかりだ。神経、神経――どうしても其に相違ない。』
 斯う言つて、軈て銀之助はあちこちと闇を照らして見た。天は今僅かに星の映る鏡、地は今大な暗い影のやう。一つとして声のありさうなものが、手提洋燈の光に入るでもなかつた。『はゝゝゝゝ。』と銀之助は笑ひ出して、『まあ、僕は耳に聞いたつて信じられない。目に見たつて信じられない。手に取つて、触《さは》つて見て、それからでなければ其様《そん》なことは信じられない。いよ/\こりやあ、僕の観察の通りだ。生理的に其様な声が聞えたんだ。はゝゝゝゝ。それはさうと、馬鹿に寒く成つて来たぢやないか。僕は最早《もう》斯うして立つて居られなくなつた――行かう。』

       (三)

 其晩、寝床へ入つてからも、丑松は父と先輩とのことを考へて、寝られなかつた。銀之助は直にもう高鼾《たかいびき》。どんなに丑松は傍に枕を並べて居る友達の寝顔を熟視《みまも》つて、その平穏《おだやか》な、安静《しづか》な睡眠《ねむり》を羨んだらう。夜も更《ふ》けた頃、むつくと寝
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