稻の穗は黄にみのりたり
 草鞋とく結《ゆ》へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ

あゝ綾絹につゝまれて
爲すよしも無く寢ぬるより
薄き襤褸《つゞれ》はまとふとも
活きて起つこそをかしけれ

匍匐《はらば》ふ蟲の賤が身に
羽翼《つばさ》を惠むものや何
酒か涙か歎息《ためいき》か
迷か夢か皆なあらず

 野に出でよ野に出でよ
 稻の穗は黄にみのりたり
 草鞋とく結《ゆ》へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ

さながら土に繋がるゝ
重き鎖を解きいでて
いとど暗きに住む鬼の
笞《しもと》の責をいでむ時

口には朝の息を吹き
骨には若き血を纏ひ
胸に驕慢手に力
霜葉を履《ふ》みてとく來れ

 野に出でよ野に出でよ
 稻の穗は黄にみのりたり
 草鞋とく結《ゆ》へ鎌も執れ
 風に嘶く馬もやれ

 二 晝

誰か知るべき秋の葉の
落ちて樹の根の埋《うづ》むとき
重く聲無き石の下
清水溢れて流るとは

誰か知るべき小山田《をやまだ》の
稻穗のたわに實るとき
花なく香なき賤《しづ》の胸
生命《いのち》踊りて響くとは

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を

血潮は草に流さねど
力うちふり鍬をうち
天の風雨《あらし》に雷霆《いかづち》に
わが鬪《たゝか》ひの跡やこゝ

見よ日は高き青空の
端より端を弓として
今し父の矢母の矢の
光を降らす眞晝中

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を

左手《ゆんで》に稻を捉《つか》む時
右手《めて》に利鎌《とがま》を握る時
胸滿ちくれば火のごとく
骨と髓との燃ゆる時

土と塵埃《あくた》と泥の上《へ》に
汗と膩《あぶら》の落つる時
緑にまじる黄の莖に
烈しき息のかゝる時

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り乾せ稻の穗を

思へ名も無き賤《しづ》ながら
遠きに石を荷ふ身は
夏の白雨《ゆふだち》過ぐるごと
ほまれ短き夢ならじ

生命《いのち》の長き戰鬪《たゝかひ》は
こゝに音無し聲も無し
勝ちて桂の冠は
わづかに白き頬かぶり

 共に來て蒔き來て植ゑし
 田の面《も》に秋の風落ちて
 野邊の琥珀《こはく》を鳴らすかな
 刈り乾せ刈り
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