qもすくない時であつた。でも、あゝした湯治場のさびしくひつそりとした時に行き合はせたのもわるくない。この伊香保行にはわたしはかねて籾山梓月君から贈られた伊香保日記を旅の鞄の中に入れて行つた。それは同君が鎌倉での日記と一緒に合卷としてあるもので、かねて非賣品として知人の間に分けられたほどの心づくしの册子であるが、自分にも贈つて貰つた時から最早五年の月日がたち、長いこと讀み返して見る折もなく本箱の中にしまつて置いてあつたものだ。さすがに朝夕をおろそかにしない人の心を籠めて書いたものは、何年たつて開いて見ても好い。土を踏まないこと五十日、とその日記の最初に出てゐる病後らしい消息の記事が先づ身にしみた。家を出るにもそゞろに足が行きなやんで、たちまち眼もくるめくとある。
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年寄に留守をあづけて秋の旅
唐黍《たうきび》は採りてたうべよ留守のほど
朝顏の垣根に寄るや暇乞
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 これらはその日記の中に見える首途《かどで》の吟で、人をいたはり、又みづからをいたはる病後の思ひがにじむばかりに出てゐる。殊に、年寄に留守をあづけてと何氣なくうち出してある述懷には心を
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