シが亡くなつた友人のまだ達者でゐた頃のやうにすら笑へなくなつたのには驚く。世界の地圖を變へ、民族の興廢を變へたばかりでなく、二十世紀の舞臺はあれからまさしく一轉したやうな、大正三年より數年にも亙る世界大戰の影響といふものは、こんなにわたしたちを變へたであらうか。この節、朝に晩に吾家へ配達して來る新聞紙を開いて見ても、殆んどわたしはその中に笑といふものを見出さない。たまに見つけるものはあつても、それは刺すやうに痛い時事の漫畫か、さもなければこの世界の苦の中に震へながら立ち盡してゐるやうな人々のカリカチュウル(戲畫)だ。こんなことで、どうしてわたしたちは自分等を延ばして行かれよう。
好い笑は、暖かい冬の陽ざしのやうなものだ。誰でも親しめる。廣いこの世の中には、どうして見ても駄目だといふこともある。しかしそれを駄目だとしてしまはないで、どうかして温めて見たいと思ふのが、わたしたちの自然な願ひではないだらうか。
ことしの正月は、親戚の年寄の御相伴で、市川團十郎追善興行の二度目の催しを舞臺の上に眺めて來た。噂のあつた古い歌舞伎の『鳴神《なるかみ》』をも初めて見物して來た。ちやうど幕合の廊
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