ひに出すまでもなく、この世の旅の途中に、何等かの形で力餅を味はないものは、おそらく、なからうと思はれるからである。
力はこの世に開放された祕密のごときものであらうか。單なる肉體的なものから、深い精神に充ちたものに至るまで、あらゆる姿に於いて力は人をひきつける。たゞめづらしい力持があるといふだけでも、人は眼をみはる。遊戲として力をたゝかはせるものがあれば、それだけでも人の眼をよろこばせる。
金剛力といふべきものが人間の大きい體躯にのみ宿るとは限らないやうだ。むしろさういふすぐれた力の持主といふものは、背とてもあまり高くなく、どちらかと言へば小柄な人の方にあると聞くのもおもしろい。不思議な縁故から、わたしは、川越の隱居を通して眞庭流の劍客、故樋口十郎左衞門といふ人の平生をすこしばかり知る機會を持つたことがある。この劍道の達人は好きな蕎麥など人並はづれて食ひ、臺所に置く昔風な銅壺附きの二つ竈ぐらゐは樂々と持ち運び、夜中の半鐘に眼をさまして、それ火事だと聞きつける時は、明治初年の頃まで東京の町々の角にあつた木戸を飛び越えるくらゐの早業を平氣でして、まことに不思議な力の持主であつた。しかも平素それを人に誇る氣色もなかつたといふことで、人もまたこの一藝に達した劍客がおよそ何程の力を貯へてゐるものやら測りかねてゐたところ、ある日、ふとしたことから夫婦で爭つた際に、さすが曲者の正體をあらはした。
十郎左衞門は寡默の人であつたから、口に出してさう爭はうとはしなかつたが、そのかはり對ひ合つて坐つてゐる細君の膝の下へ兩手をさし入れたかと思ふと、いつのまにか細君のからだは庭の眞中へ飛んでゐたといふ。しかもすこしも細君を傷つけることなしに。さういふ十郎左衞門その人がまた、至つて小柄、小造の男であつたとも傳へられる。
ある人が來て、力も術にまで鍛へられるには種々な修業時代を通り過ぎるとの話が出た。騎馬の術にしても、普通の騎士の場合は別にして、動きのある馬上で槍でも使はうとするほどの武道者に取つては、先づ三年は木馬に跨る修業を要するといふ。あたかもこれは、ある地方に住む蕃人等が細く鋭い漁具の鎗を用意して、流水の中に動く魚を突きさす前に、先づ西瓜の類を坂にころがし、それを突きさす修業を積むの類であらうか。
同じ人が來て、ある病弱者が山に入り捨身になつて病と戰つた揚句に不思議な力を獲得して還つたといふ話をわたしの許に置いて行つた。弱い人間もそこまで行けば、果實ぐらゐの食に露命をつなぎとめて、人並以上の力を囘復することも出來るものか。病める身が追々と丈夫になり、高い木の枝ぐらゐには飛びつけるやうになり、しまひには重い岩石をも動かすほどの力の持主となり得たといふことだ。
世には天性肉體の力にすぐれたものもある。さういふ力の持主はどこの國でも人に騷がれると見える。佛蘭西あたりの少年の讀本の中にもすぐれた力持のことが面白く語つてあつたやうに覺えてゐる。どこそこの家には代々力持が出るといふやうな話のあるのを見ても、肉體の力は遺傳するものらしい。その力が婦人に傳はると、その人一代かぎりで絶えるとも聞く。川越の隱居が實母に當る人はわたしも逢つたことのないおばあさんであるが、めづらしい力を持つた娘のことがそのおばあさんの生前の咄しの中によく出たとか。飛んだ器量好しで、まことに愛くるしく見えるところから、どこかの商家にその娘が奉公してゐた頃、うるさくからかひに來る店の若者もすくなくなかつたといふ。ある日のこと、その娘は臺所を掃除しようとして、そこに有り合ふ大きな重い酒樽を片手に持ちあげ、いかにも無造作にその下を掃いてゐた。その力に恐れをなしてか、それぎり娘のところへからかひに來る若者もなくなつたともいふ。こんな愛くるしい娘の小さな肉體に宿つためづらしい力は、おそらく親讓りのものであつたらう。
すでに肉體の力が遺傳するものとすれば、精神力といふべきものも祖先から傳はりもしようし、子孫に遺りもしよう。それの絶えることもあらう。また、それの再び生きるといふこともあらう。
思はずわたしはこんなことを書きつけて見た。それにつけても、又聞きにしたある僧の話を思ひ出す。その人が十歳ばかりの少年の身をある寺の和尚の許に寄せてゐた頃、思ひがけない問を出されて面喰つたことがあつたといふ。和尚尋ねて曰く、『お前はどうしたら俺のやうな和尚になれると考へるか』と。そこで少年が答へた。『飯《まゝ》食つて寢て、飯食つて寢て、大きくなれば和尚さまのやうになれます』と。その答へをきくと、和尚はいきなり鞭を持つて來て少年の頭をなぐりつけたとの話である。この少年は十歳ばかりの年頃に一生忘れがたいやうな力餅を味はつたのであらう。そして、和尚から貰つた力でも、長い生涯の間にはそれを自分のも
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