スつてさうした次男三男の方に一段の不便《ふびん》も増さう。それを思へば、一生親の胸を傷め、かた/″\不幸なものはその數を知らない。たとへ實體《じつてい》に勤めたところで、彼の如く末子に生れたものは、成身しても七里役(飛脚)か、馬追、駕籠かきと極まつた身分の時代にあつて、兎にもかくにも彼は例外の仕合せを兩親の側に見出した。しばらくもその冥加《みやうが》を彼が忘れたら、生れ得たまゝの馬追か駕籠かきで生涯を終るか、それも恥づかしくなれば遠國へでも走り、非人乞食の仲間入りより外なかつたであらう。そこまで源十郎は覺書に書いて來て、更に『その方ども』といふ昔風な言葉でその子に呼びかけ、お前達はその末子の自分の子供で、言はゞ末の末のものである。東西を知る頃より草刈奉公にも遣はすべき筈のところ、隱居の御蔭で、われらが身分にも過ぎた成し下され方といふものである。冥加のほども恐ろしい。自分としてはしばらくもそのことを忘れないが、元來お前達は得生もすくなしのくせに、口悧巧で人に出過ぎ、殊に馬籠は人少なのところゆゑ、われら如きのものまでが宿方の役人を勤めるところから――尤も、自分としては、日々わが身の『俗生』を顧みはするものゝ、自然と人の敬ふにつけて自分等の本を忘れ、兎角人目にあまることは、漸くこの五十の歳に及んでそれを知つたとも言つてある。
源十郎は又、すでに他へ縁付いてゐる娘のことをも、この覺書に書き添へることを忘れなかつた。
『その方どもは、わけて女子兄弟とては一人のことにて、殊に母早世ゆゑ、成身に隨ひ追々便りなからんと、われらとても一入《ひとしほ》不便にぞんじ申し候。縁付き候ても子持ちのことにこれあり、且は年頃にても女子は親の家へ遊びに參るを樂みにいたし候よし世間にてほゞ承はり候へども、母なきところにては是等のこと一人の娘不便の事に候。なにとぞ、兄は兩親に成り替り、隨分目をかけ呉れ候やうにとぞんじたてまつり候。たとへ、一段不便をかけ候ても、兄は姉程には心安くなきものに候へば、これらのところをも考へ、たゞ何事も神佛ならびに先祖の御蔭によることを思ひ、しばらくも冥加を忘れず、御禮申し、家業第一に相勤め申すべく候。』
この覺書の末には、折ふしは兄弟うち寄つて慰みにこれを一覽するがいゝといふやうな、優しい言葉も殘してある。
源十郎がその子に殘さうと思ひ立つた覺書は長いこと心掛けたものらしく、明和九年、彼が三十九歳の頃に、すでにその下書をつくりはじめ、五十歳の頃になつて更に筆を加へた部分もあるらしい。それほど彼は初代八幡屋の父が出發當時のことを忘れさうな子孫の末を案じたらしく思はれる。
それから三年後、天明六年の六月十二日の日附で、彼は今一通の別な覺書をつくつた。『御隱居御存生の中の御咄《おはなし》あらまし覺書』として、やはり前のものと同じやうな半紙二つ折りの横とぢの古帳であるが、それには、
『右の日、子供は酒の一番火入、われら見世番にて隙《ひま》に候間、覺書いたし候――源十郎五十三歳記す』
とある。これを見ても、二代目としての彼は父の隱居の仕事を幾倍かにひろげ、五十三歳の頃にはすでにかなり大きな造り酒屋に坐つて、その子に酒の一番火入でもさせ、越しかた、行く末を思ひながら、後の覺書をつくらうとするやうな人であつたらうと思はれる。
『八十年來の浮世の思ひ出、すべて思ひ出し/\、あらまし書きつく。』
これは源十郎が後の覺書のはじに書き添へた言葉だ。五十餘歳にして、八十年來の浮世の思ひ出とは異樣にも聞えるが、おそらく彼は八十歳の老齡までも生きてゐた人で、後から/\思ひ出し/\、書き足した部分もあつたのであらう。前後二通の覺書は、彼が長い年月をかけて、その子のために用意して置いて行つたものと見ていゝ。殊に、後の覺書は前のものの不足を補はうとして、多少重複したところがなくもないが、一層こまやかに、心を籠めて書いてある。
もう一度、源十郎のやうな町人をして、彼等自身をこゝに語らせたい。彼に言はせると、自分等は代々の百姓で、先代より困窮のよしにうけたまはつてゐるが、兩親が追々の骨折りで當時安樂に暮すやうになつた。これは、まつたく先祖と兩親との御蔭である。自分が若年の頃から朝晩の咄にうけたまはつたところによると、隱居は十八歳で身上《しんしやう》を受け取り、蜂谷の名跡《みやうせき》をつぎ、馬籠宿の年寄役を勤め、二十八九の頃に八幡屋の普請をしたが、困窮の際であつたから農業にも精出してやつた。母人はまた母人で、この隱居を助けて、夜通し普請の折の木の片を燈《とぼ》し、それを油火に替へたとやら。その頃、母が片手間の商賣には豆腐屋をして、夜通し石臼をひき、その間には三四人の子供をひかへての辛勞から、夜一夜|安氣《あんき》に眠つたこともなかつたといふ。新宅のことで
前へ
次へ
全49ページ中10ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング