7字上げ]有明
郷を去つて飄然西の方へ下つて行つた武林無想庵君が途中からの葉書便りを受け取つて見ると、同君は靜岡に蒲原さんを訪ねたと書いてよこして、同じ葉書に有明君の筆でこの歌二首かきつけてある。『めづらしき友』とは武林君のこと。あの『草わかば』、『春鳥集』、『有明集』の作者に、今日の不自由さが待つてゐようとは誰しも思ひがけないことで、耳|聾《し》ひた詩人からの便りを机の上に置き、しぐれがちな初冬の夜の空氣も身にしみる電燈のかげに、二首の歌を繰り返し讀んで見た時は思はず胸が迫つた。
歐羅巴人の見地よりする古代印度の研究者として名高く、吾國から巴里に遊んだ學者達をはじめ多くの日本の留學生を愛した佛蘭西大學のシル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ン・レヰイ老教授のことは知る人は知る。あの佛蘭西の學者も近く故人となつたと聞く。
レヰイ教授は、アインシュタインなぞと同じやうに猶太《ユダヤ》系統の人であつた。あの教授の家庭では他の佛蘭西人のそれと變つたこともないが、たゞ一年に一度、家族の人達と共に黒パンを食ふ日が定めてあつたとのことである。これは猶太民族が埃及《エジプト》を出た遠い昔を記念するための年中行事の一つとして、教授の家庭に行はれてゐたことであるとか。今は東京の天文臺に在勤する福見尚文君は長いこと巴里に遊學時代を送つた篤學の人で、レヰイ教授の家族とも親しかつたところから、わたしは同君を通してその話を聞いたことを覺えてゐる。ことしの冬、教授の訃《ふ》を耳にするにつけても、曾てわたしは巴里の植物園の近くに住む家族の人達から茶の會や食事なぞに招かれたことを思ひ出し、わたしが國から遠い旅の記念にもと用意して行つた茶、椿、銀杏、沈丁花なぞの日本産植物の種子を贈つたのも教授の許であつたことを思ひ出した。一年に一度の黒パンは何でもないことのやうだが、民族の長い歴史にかけてそれを記念するところに教授が心の奧もしのばれて、あの話は忘れがたい。
異國の教授の上ばかりでなく、過ぐる七年の月日の間に亡くなつた老幼の舊知を數へて見ても驚かれるばかり。小山内薫君、岡野知十君、いづれも今は故人だ。根岸の岡崎幸之助君は舊姓池田と言つて、高橋の河岸の角に薪炭問屋を營んでゐた岡崎家を相續した人で、京橋數寄屋河岸の泰明小學校へ通つて來られた頃はわたしも共に机を並べた少年時代からの友達であるが、その人なつこい性質は年を取つても變りがなく、時にはこれは昔の岡崎と思へと言つて記念の置時計を持つて來て呉れたり、時には互にいそがしいからだでも一つどうかいふ日を見つけて湯河原あたりへ骨休めに同行したいものだと言ひ出したりして、ことしの蜜柑の黄色くなる頃こそはと、その約束までしてあつたのに、この舊い馴染も最早この世にはゐない人だ。不思議な縁故からつながれるやうになつた浦島堅吉老人、幼い加藤二郎さん、川越の老母、この人達もまた亡き數に入つてしまつた。殊に、川越の老母は東京生れの人であつたところから、自分の長い仕事が一ト切りになる頃を見計らつては、一年に四度づゝは必ず東京の町中の空氣を吸ひに、上京することを樂しみにし、『はい、今日は』とでも言ふべきところを、『はい、只今』などと言ふほどにしてわれらが家の格子戸をくゞり、昨年、一昨年、一昨々年の冬もわれらと一緒に年を越して、短くても二十日、どうかすると三十日も四十日も長く家に逗留したものであつた。この老母まことに話はおもしろく、茶と音曲と料理の道にも明るく、かず/\の美しい性質を具へてゐたことは稀に見るほどの老婦人で、自分が長い仕事を終るまでは是非達者でゐると言ひ/\して、ことしの六月の上京をも心待ちにしてゐたといふことであつたのに實に惜しいことをした。
屋《いへ》は舊く、身もまた舊い。これは岡野知十君が遺稿の中に見つけた言葉であるが、このまゝ今日の自分の上にもあてはまる。二疊の玄關は茶の間への廊下續きに當るところで、路地からの風も吹き入り夏は涼しい。ことしの暑中にも午後からはそこを讀書の場處にして、日除《ひよけ》がはりに路地の片隅へ造りつけた朝顏棚の方へ行くことを慰みの一つにして來たが、いつの間にか枯れ/″\な蔓のみが疎らな竹の垣に殘るやうになつた。夏は深い日除になり、秋は黄葉の落ちるまでを味はせ、冬はまた物干場のかはりになるのも吾家の庭の片隅にある青桐だ。しかし、どうやら七年の重荷をおろすことの出來た自分にはこの舊い屋根の下もなつかしい。今は身も心も僅かに輕くなつたやうな氣がする。
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過去を探ることの容易でない一例として、この覺書の中にも書いてある木曾路の『水役』につき、自分の知り得たことをすこし記しつけて見る。木曾奈良井に住む徳利屋主人より遠藤工學士宛の手紙によれば、奈良井邊でいふ水役と
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