驍ェ、一茶はあの中年の長い放浪生活にもかゝはらず、江戸じまぬことおびたゞしい。無器用で、正直で、狹量で、多分の野性に富んでゐて[#「富んでゐて」は底本では「當んでゐて」]、容易に他と調和しがたい一茶が田舍に置いて考へて見たい人なら、『鶯日』の作者はどこまでも東京の水で洗つて洗ひぬいたやうな人である。そこに都會の詩人らしさがある。
 心が涼しければ、句もまた涼しい。その涼しさを失はずに持ちつゞけて行つたところから、『鶯日』二卷に溢れてゐるやうなあの活氣と色艶とに富んだ詩情が迸り出て來てゐる。物わかりのよさ、情のあつさなぞは、二卷のどの頁にも見出される。作者はまた、都會の人にして初めて捉へ得るやうなものを實におもしろく短い十七字の形に盛つて見せる感覺の鋭敏さを具へてゐる。これを天稟《てんぴん》と思はないわけにいかない。どうかするとわたしは作者が贈答の句なぞに突き當つて、あまりの輕さにまごつくこともある。
[#天から4字下げ]新年に一つまゐらう松の鮨
 いかにも知十君の句らしい。そこには口を衝いて出るやうな才華の煥發があり、わざとらしくないユウモアもある。しかしこの松の鮨ですら、最早淺草代地の名物でもなくなつてゐる。小松が何を食はせる店で、辨松が何の仕出しする家かも分らなくなつて行く日があるとすると、このすぐれた都會の詩人が書いたものにもかなり難解に思はれる部分が殘らう。ともあれ、『鶯日』の作者には、やゝもすると都會の人の陷り易い早呑込みがない。すべてが正味だ。作者は痰を吐く如くに句を作るべしと言つてゐて、虚心平氣ならば何の難いことがあらうかと語つて見せたといふことが、小泉氏の序の中にも見える。この鶯の好い聲はさうざらに聞かれるものとも思はれない。眞似の造り聲ではもとよりない。
[#天から4字下げ]君が手をわがふところに夜寒かな
 この句なぞ知十君の生涯の中でいつ頃に出來たものか、その邊はよく知らないが、いかにも眞情がうち出してあつて好ましい。
[#ここから4字下げ]
青簾壁はまだ中塗りのまゝ
いつまでも簾の青き願かな
[#ここで字下げ終わり]
 わたしは都會詩人としての知十君の特色をその夏の句に見つけることが多いと思ひ、殊に句の姿も涼しいと思ふものであるが、こゝには盡しがたい。

     秋草

 過日、わたしはもののはじに、ことしの夏のことを書き添へるつもりで、思は
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