スが、さういふ時でも君には取りみだしたやうな風はすこしもなかつた。
 今になつてわたしは君が歐羅巴を旅した足跡を辿つて見る。君は先づ獨逸に行つて、かず/\の近代的なものに觸れた。獨逸、殊に伯林は、あらゆる意味に於いて近代的だとは、よく君の口から聞いたところだ。佛蘭西に來てからの君が近代の繪畫を見る眼は一層深められたやうであつたが、一方にはそこに殘存する中世から十八世紀へかけての藝術――殊に、ゴシックの建築美は君が探求の的の一つとなつたらしい。それからルネッサンス時代の遺物の多い伊太利の旅へと進んで行つた。君がアカデミックでないクラシックの精神に近づくやうになつたのも、伊太利の旅に得るところが多かつたのであらうと思はれる。おそらく旅の事情と君の健康とが許したら、君の足跡は希臘にまで達したであらう。わたしとしてもあのアテエナに君のやうな探求者を置いて考へたかつた。世界の大戰は旅行者の自由を奪つてしまつたのだ。
『三田文學』の追悼録の中には、安倍能成氏が君を惜んだ一文も出てゐる。その中に『今一つ考へることは、澤木君が西洋美術史を通じて西洋文化を根本的に究明しようとして、輕々しく東洋趣味の横道に足を踏込まれなかつた學者的な專一な風格である』とあつたのはうれしかつた。それから、同じ追懷のつゞきに、左の一節は殊にわたしの心をひいた。
『澤木君が東京帝國大學の文學部の講師をして居られた頃でなかつたかと思ふが、一春文學部の學生達に加はつて澤木君と一緒に、奈良京都の美術旅行にいつたことがあつた。その時のことである。唐招提寺金堂の千手觀音の前であの澤山の觀音の手の美的效果に就て澤木君が傍の人と論じてゐたのを記憶する。その時の議論の内容を忘れたが、澤木君の論調には西洋美術のグウを持して容易に東洋美術に許さない樣な所があつた。さうして西洋美術の本筋をそのレアリズムに認めて居られたらしく考へられた。』
 いかにも澤木君の面目がはつきりとよく出てゐる。これだ、これが澤木君だ、とわたしはさう思つた。尤も、その時の議論の内容は忘れたと安倍氏が言はれるくらゐだから、わたしには猶更よくは分らないが、澤木君の持説なるレアリズムの内容が他人のそれとどう異なつてゐたか、君はその最も深い根據をどこに置いてゐられたのか、例へばゴシック建築の内部の構造にあらはれてゐるやうな數理の觀念と美との結合が全く東洋美術には
前へ 次へ
全98ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング