ィ書くこととは別の物であるのか、手紙を書くといふことも一つの才能であるのか、舊い技巧や形式を捨てることが反つて人をこだはらせるのか。

 それにつけて思ひ出す。曾て外國の旅にあつた頃、言葉の不自由さには自分でも苦しみ、在留する人達からもよくその話を聞かされた。國の方で語學の教師がつとまるほど外國の言葉に親しんだ人でも、一歩海の外へ身を置いた時は、靴一足注文するにもまごつくものだとの話なぞが出たことを覺えてゐる。ある人が以太利《イタリー》に留學したばかりの頃、その人を泊めた宿の以太利の婦人は不審を打つて、『今度日本から見えた客は不思議な方で、話をさせてはすこししか以太利語を話さないが、手紙なら實にすら/\とお書きなさる』と言つて驚いたといふ話もある。わたしたちの語學は多く眼から入る語學で、耳から入る語學ではないのだから、日常使用する些細な言葉の語彙には乏しくて、書物の中に出て來るやうなむつかしい名詞、形容詞を暗記してゐることは、しば/\外國人を驚かす。ある倫敦《ロンドン》の婦人は、日本から行つた留學生を前に置いて、『あなたがたは大きな言葉をよく知つてゐるが、小さな言葉を御存じない』と言つて見せたとか。どうしてこんなことをこゝにくど/\しく書きつけて見るかと言ふに、その英吉利《イギリス》の婦人が言つたといふ大きな言葉と小さな言葉の關係こそは、わたしたちの忘れてならないことで、一度その言葉の祕訣を會得したら、自由に思ふことも言ひあらはせるからである。これは會話の上のことにのみ限らない。物書く祕訣も、實はそんなところに潜んでゐるのではあるまいか。

 そこで、わたしは婦人の書く手紙のことに返つて、こんなことを考へてみる。成程、教養と物書くこととは別の物であるかも知れない。手紙を書くといふことも一つの才能であるかも知れない。舊い技巧や形式を捨てることが反つて人をこだはらせる場合もあるかも知れない。しかし、大きな言葉を知ると共に小さな言葉を知つて、その祕訣をつかんだなら、すくなくも生きた手紙を書き得るであらうと。

 現代の人の口に上る合言葉、新聞雜誌の中に見つける新語、書物の中に出て來る學問上の術語、それらの多くは大きな言葉である。わたしたちが現に口にしてゐながら、それに氣がつかずにゐるやうな、それらの親しみもあれば、陰影もある日常の使用語の多くは小さな言葉である。筆執り物書
前へ 次へ
全98ページ中4ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング