フらしく、明和九年、彼が三十九歳の頃に、すでにその下書をつくりはじめ、五十歳の頃になつて更に筆を加へた部分もあるらしい。それほど彼は初代八幡屋の父が出發當時のことを忘れさうな子孫の末を案じたらしく思はれる。
 それから三年後、天明六年の六月十二日の日附で、彼は今一通の別な覺書をつくつた。『御隱居御存生の中の御咄《おはなし》あらまし覺書』として、やはり前のものと同じやうな半紙二つ折りの横とぢの古帳であるが、それには、
『右の日、子供は酒の一番火入、われら見世番にて隙《ひま》に候間、覺書いたし候――源十郎五十三歳記す』
 とある。これを見ても、二代目としての彼は父の隱居の仕事を幾倍かにひろげ、五十三歳の頃にはすでにかなり大きな造り酒屋に坐つて、その子に酒の一番火入でもさせ、越しかた、行く末を思ひながら、後の覺書をつくらうとするやうな人であつたらうと思はれる。

『八十年來の浮世の思ひ出、すべて思ひ出し/\、あらまし書きつく。』
 これは源十郎が後の覺書のはじに書き添へた言葉だ。五十餘歳にして、八十年來の浮世の思ひ出とは異樣にも聞えるが、おそらく彼は八十歳の老齡までも生きてゐた人で、後から/\思ひ出し/\、書き足した部分もあつたのであらう。前後二通の覺書は、彼が長い年月をかけて、その子のために用意して置いて行つたものと見ていゝ。殊に、後の覺書は前のものの不足を補はうとして、多少重複したところがなくもないが、一層こまやかに、心を籠めて書いてある。
 もう一度、源十郎のやうな町人をして、彼等自身をこゝに語らせたい。彼に言はせると、自分等は代々の百姓で、先代より困窮のよしにうけたまはつてゐるが、兩親が追々の骨折りで當時安樂に暮すやうになつた。これは、まつたく先祖と兩親との御蔭である。自分が若年の頃から朝晩の咄にうけたまはつたところによると、隱居は十八歳で身上《しんしやう》を受け取り、蜂谷の名跡《みやうせき》をつぎ、馬籠宿の年寄役を勤め、二十八九の頃に八幡屋の普請をしたが、困窮の際であつたから農業にも精出してやつた。母人はまた母人で、この隱居を助けて、夜通し普請の折の木の片を燈《とぼ》し、それを油火に替へたとやら。その頃、母が片手間の商賣には豆腐屋をして、夜通し石臼をひき、その間には三四人の子供をひかへての辛勞から、夜一夜|安氣《あんき》に眠つたこともなかつたといふ。新宅のことで
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