生生活もしたらしい男の手を眺めて、「僕も君等の時代には、随分困ったことがある――そりゃあもう、辛い目に出遇ったことがある。丁度君が今日の境遇を僕も通り越して来たものさ。さもなければ、君、誰がこんな忠告なぞするものか、実際君の苦しい有様を見ると、僕は大に同情を寄せる。まあ僕は哭《な》きたいような気が起る。真実《ほんとう》に苦しんで見たものでなければ、苦しんで居る人の心地《こころもち》は解らないからね。そこだ。もし君が僕の言うことを聞く気があるなら、一つ働いて通る量見になりたまえ。何か君は出来ることがあるだろう――まあ、歌を唄うとか、御経を唱《あ》げるとか、または尺八を吹くとかサ。」
「どうも是という芸は御座いませんが、尺八ならすこしひねくったことも――」と、男は寂しそうに笑い乍ら答えた。
「むむ、尺八が吹けるね。それ見給え、そういう芸があるなら売るが可《いゝ》じゃないか。売るべし。売るべし。無くてさえ売ろうという今の世の中に、有っても隠して持ってるなんて、そんな君のような人があるものか。では斯うするさ――僕が今、君に尺八を買うだけの金を上げるから粗末な竹でも何でもいい、一本手に入れて、それを吹いて、それから旅をする、ということにしたまえ――兎に角これだけあったら譲って呉れるだろう――それ十銭上げる。」
斯う言って、そこに出した銀貨を男の手に握らせた。
「人の一生というものは、君、どうなるか解らない。」と自分は男の顔を熟視《みまも》り乍ら言った。「これから将来《さき》、君がどんな出世をするかも知れない。僕がまた今日の君のように困らないとも限らない。まあ、君、左様《そう》じゃないか。もし君が壮大《おおき》な邸宅《やしき》でも構えるという時代に、僕が困って行くようなことがあったら、其時は君、宜敷頼みますぜ。」
「へへへへへ。」と男は苦笑《にがわら》いをした。
「いいかね。僕の言ったことを君は守らんければ不可《いかん》よ。尺八を買わないうちに食って了っては不可《いかん》よ。」
「はい食《た》べません、食べません――決して、食べません。」
と、男は言葉に力を入れて、堅く堅く誓うように答えた。
やがて男は元気づいて出て行った。施与《ほどこし》ということは妙なもので、施《ほどこ》された人も幸福《しあわせ》ではあろうが、施した当人の方は尚更心嬉しい。自分は饑えた人を捉《つかま》えて、説法を聞かせたとも気付かなかった。十銭呉れてやった上に、助言もしてやった。まあ、二つ恵んでやった。と考えて、自分のしたことを二倍にして喜んだ。五月――寂しい旅情は僅かに斯ういうことで慰められたのである。
しばらくして、水汲みから帰って来た下女に聞くと、その男は自分の家を出ると直に一膳めしの看板をかけた飲食店へ入ったという。其時自分は男の言葉を思出して、「まだ朝飯も食べません。」と、繰返して笑った。定めし男の方でも自分の言葉を思出して「説法は有難いが、朝飯の方が尚有難い。」とかなんとか独語《ひとりごと》を言い乍ら、其日の糧《かて》にありついたことであろう。
[#地より2字上がり](一九〇六年一月「芸苑」)
底本:「日本プロレタリア文学大系(序)」三一書房
1955(昭和30)年3月31日初版発行
1961(昭和36)年6月20日第2刷
入力:Nana ohbe
校正:林 幸雄
2001年12月17日公開
2001年12月31日修正
青空文庫ファイル:
このファイルはインターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前へ 終わり
全2ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング