w校を出た婦人があって青年男女の交際を結んだ時があったなどとはどうして知ろう、況《ま》してそういう婦人に附随する一切の空気が悉《ことごと》く幻のように消え果てたとはどうして知ろう、と彼は想って見た。まだ世間見ずの捨吉には凡《すべ》てが心に驚かれることばかりであった。今々この世の中へ生れて来たかのような心持でもって、現に自分の仕ていることを考えると、何時《いつ》の間にか彼は目上の人達の知らない道を自分勝手に歩き出しているということに気が着いた。彼はその心持から言いあらわし難い恐怖を感じた……」
岸本は読みつづけた。
「……明治もまだ若い二十年代であった。東京の市内には電車というものも無い頃であった。学校から田辺の家までは凡《およ》そ二里ばかりあるが、それくらいの道を歩いて通うことは一書生の身に取って何でも無かった。よく捨吉は岡つづきの地勢に沿うて古い寺や墓地の沢山にある三光町《さんこうちょう》寄の谷間《たにあい》を迂回《うかい》することもあり、あるいは高輪《たかなわ》の通りを真直《まっすぐ》に聖坂《ひじりざか》へと取って、それから遠く下町の方にある田辺の家を指《さ》して降りて行く。その
前へ
次へ
全753ページ中86ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング