凾フ面倒を見て貰うことにしてあった。
岸本の家へ来たばかりの頃の節子はまだ若かった。同じ姉妹でも、姉は学校で刺繍《ぬいとり》裁縫造花なぞを修め、彼女はむずかしい書籍《ほん》を読むことを習って来た。その節子が学窓を離れて岸本の家へ来て見た時は、筋向うには一中節《いっちゅうぶし》の師匠の家があり、その一軒置いて隣には名高い浮世画師の子孫にあたるという人の住む家があり、裏にはまた常磐津《ときわず》の家元の住居《すまい》なぞがあって、学芸に志す彼女の叔父の書斎をこうしたごちゃごちゃとした町中に見つけるということさえ、彼女はそれをめずらしそうに言っていた。「私が叔父さんの家へ来ていると言いましたら、学校の友達は羨《うらや》ましがりましたよ」それを言って見せる彼女の眼には、まだ学校に通っている娘のような輝きがあった。あの河岸の柳並木のかげを往来した未知の青年の心――寂しい、頼りのなさそうな若い日の懊悩《おうのう》をよく手紙で岸本のところへ訴えてよこした未知の青年の心――丁度あの青年に似たような心をもって、叔父《おじ》の許《もと》に身を寄せ、叔父を頼りにしている彼女の容子《ようす》が岸本にも感じられた。彼女の母や祖母《おばあ》さんは郷里の山間に、父は用事の都合あって長いこと名古屋に、姉の輝子は夫に随《つ》いて遠い外国に、東京には根岸に伯母《おば》の家があってもそこは留守居する女達ばかりで、民助|伯父《おじ》――岸本から言えば一番|年長《としうえ》の兄は台湾の方で、彼女の力になるようなものは叔父としての岸本一人より外に無かったから。その夏輝子が嫁いて行く時にも、岸本の家を半分親の家のようにして、そこから遠い新婚の旅に上って行ったくらいであるから。
「繁《しげる》さん、お遊びなさいな」
と表口から呼ぶ近所の女の児の声がした。繁は岸本の二番目の子供だ。
「繁さんは遊びに行きましたよ」
と節子は勝手口に近い部屋に居て答えた。彼女はよく遊びに通って来る一人の女の児に髪を結ってやっていた。その女の児は近くに住む針医の娘であった。
「子供が居ないと、莫迦《ばか》に家《うち》の内《なか》が静かだね」
こう節子に話しかけながら、岸本は家の内を歩いて見た。そこへ婆やが勝手口の方から入って来た。
「お節ちゃん、女の死骸《しがい》が河岸へ上りましたそうですよ」
と婆やは訛《なま》りのある調子で、町で聞いて来た噂を節子に話し聞かせた。
「なんでも、お腹に子供がありましたって。可哀そうにねえ」
節子は針医の娘の髪を結いかけていたが、婆やからその話を聞いた時は厭《いや》な顔をした。
五
「お節ちゃん」
子供らしい声で呼んで、弟の繁が向いの家から戻って来た。針医の娘の髪を済まして子供の側へ寄った節子を見ると、繁はいきなり彼女の手に縋《すが》った。
岸本は家の内を歩きながらこの光景《ありさま》を見ていた。彼は亡くなった妻の園子が形見としてこの世に置いて行った二番目の男の児や、子供に纏《まと》いつかれながらそこに立っている背の高い節子のすがたを今更のように眺《なが》めた。園子がまだ達者でいる時分は、節子は根岸の方から学校へ通っていたが、短い単衣《ひとえ》なぞを着て岸本の家へ遊びに来た頃の節子に比べると、眼前《めのまえ》に見る彼女は別の人のように姉さんらしく成っていた。
「繁ちゃん、お出《いで》」と岸本は子供の方へ手を出して見せた。「どれ、どんなに重くなったか、父さんが一つ見てやろう」
「父さんがいらっしゃいッて」と節子は繁の方へ顔を寄せて言った。岸本は嬉《うれ》しげに飛んで来る繁を後ろ向きにしっかりと抱きしめて、さも重そうに成人した子供の体躯《からだ》を持上げて見た。
「オオ重くなった」
と岸本が言った。
「繁さん、今度は私の番よ」と針医の娘もそこへ来て、岸本の顔を見上げるようにした。「小父さん、私も――」
「これも重い」と言いながら、岸本は復《ま》た復たさも重そうに針医の娘を抱き上げた。
急に繁は節子の方へ行って何物かを求めるように愚図《ぐず》り始めた。
「お節ちゃん」
言葉尻《ことばじり》に力を入れて強請《ねだ》るようにするその母親のない子供の声は、求めても求めても得られないものを求めようとしているかのように岸本の耳に徹《こた》えた。
「繁ちゃんはお睡《ねむ》になったんでしょう――それでそんな声が出るんでしょう――」と節子が子供に言った。「おねんねなさいね。好いものを進《あ》げますからね」
その時婆やは勝手口の方から来て、子供のために部屋の片隅《かたすみ》へ蒲団《ふとん》を敷いた。そこは長火鉢《ながひばち》なぞの置いてある下座敷で、二階にある岸本の書斎の丁度|直《す》ぐ階下《した》に当っていた。節子は仏壇のところから蜜柑《みかん
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