にょう》されていて、三週間ばかり前には、丁度花束のように密集したやつが教室の窓に近く咲き乱れた。休みの時間に出て見ると、濃い花の影が私達の顔にまで映った。学生等はその下を遊び廻って戯れた。殊《こと》に小学校から来たての若い生徒と来たら、あっちの樹に隠れたり、こっちの枝につかまったり、まるで小鳥のように。どうだろう、それが最早《もう》すっかり初夏の光景に変って了った。一週間前、私は昼の弁当を食った後、四五人の学生と一緒に懐古園へ行って見た。荒廃した、高い石垣の間は、新緑で埋《うずも》れていた。
 私の教えている生徒は小諸町の青年ばかりでは無い。平原《ひらはら》、小原《こはら》、山浦、大久保、西原、滋野《しげの》、その他小諸附近に散在する村落から、一里も二里もあるところを歩いて通って来る。こういう学生は多く農家の青年だ。学校の日課が済むと、彼等は各自《めいめい》の家路を指して、松林の間を通り鉄道の線路に添い、あるいは千曲川《ちくまがわ》の岸に随《つ》いて、蛙《かわず》の声などを聞きながら帰って行く。山浦、大久保は対岸にある村々だ。牛蒡《ごぼう》、人参《にんじん》などの好い野菜を出す土地だ。滋野は北佐久《きたさく》の領分でなく、小県《ちいさがた》の傾斜にある農村で、その附近の村々から通って来る学生も多い。
 ここでは男女《なんにょ》が烈《はげ》しく労働する。君のように都会で学んでいる人は、養蚕休みなどということを知るまい。外国の田舎にも、小麦の産地などでは、学校に収穫《とりいれ》休みというものがあるとか。何かの本でそんなことを読んだことがあった。私達の養蚕休みは、それに似たようなものだろう。多忙《いそが》しい時季が来ると、学生でも家の手伝いをしなければ成らない。彼等は又、少年の時からそういう労働の手助けによく慣らされている。
 Sという学生は小原村から通って来る。ある日、私はSの家を訪ねることを約束した。私は小原のような村が好きだ。そこには生々とした樹蔭《こかげ》が多いから。それに、小諸からその村へ通う畠《はたけ》の間の平かな道も好きだ。
 私は盛んな青麦の香を嗅《か》ぎながら出掛けて行った。右にも左にも麦畠がある。風が来ると、緑の波のように動揺する。その間には、麦の穂の白く光るのが見える。こういう田舎道を歩いて行きながら、深い谷底の方で起る蛙の声を聞くと、妙に私は圧《お》しつけられるような心持《こころもち》に成る。可怖《おそろ》しい繁殖の声。知らない不思議な生物の世界は、活気づいた感覚を通して、時々私達の心へ伝わって来る。
 近頃Sの家では牛乳屋を始めた。可成《かなり》大きな百姓で父も兄も土地では人望がある。こういう田舎へ来ると七人や八人の家族を見ることは別にめずらしくない。十人、十五人の大きな家族さえある。Sの家では年寄から子供まで、田舎風に慇懃《いんぎん》な家族の人達が私の心を惹《ひ》いた。
 君は農家を訪れたことがあるか。入口の庭が広く取ってあって、台所の側《わき》から直《じか》に裏口へ通り抜けられる。家の建物の前に、幾坪かの土間のあることも、農家の特色だ。この家の土間は葡萄棚《ぶどうだな》などに続いて、その横に牛小屋が作ってある。三頭ばかりの乳牛《ちちうし》が飼われている。
 Sの兄は大きなバケツを提《さ》げて、牛小屋の方から出て来た。戸口のところには、Sが母と二人で腰を曲《かが》めて、新鮮な牛乳を罎詰《びんづめ》にする仕度《したく》をした。暫時《しばらく》、私は立って眺《なが》めていた。
 やがて私は牛小屋の前で、Sの兄から種々《いろいろ》な話を聞いた。牛の性質によって温順《おとな》しく乳を搾《しぼ》らせるのもあれば、それを惜むのもある。アバレるやつ、沈着《おちつ》いたやつ、いろいろある。牛は又、非常に鋭敏な耳を持つもので、足音で主人を判別する。こんな話が出た後で私はこういう乳牛を休養させる為に西《にし》の入《いり》の牧場《まきば》なぞが設けてあることを聞いた。
 晩の乳を配達する用意が出来た。Sの兄は小諸を指して出掛けた。

     鉄砲虫

 この山の上で、私はよく光沢《つやけ》の無い茶色な髪の娘に逢う。どうかすると、灰色に近いものもある。草葺《くさぶき》の小屋の前や、桑畠《くわばたけ》の多い石垣の側なぞに、そういう娘が立っているさまは、いかにも荒い土地の生活を思わせる。
「小さな御百姓なんつものは、春秋働いて、冬に成ればそれを食うだけのものでごわす。まるで鉄砲虫――食っては抜け、食っては抜け――」
 学校の小使が私にこんなことを言った。

     烏帽子山麓《えぼしさんろく》の牧場

 水彩画家B君は欧米を漫遊して帰った後、故郷の根津村に画室を新築した。以前、私達の学校へは同じ水彩画家のM君が教えに来てくれてい
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