友人を訪ねる機会もなかったから、したがって諸先輩の消息を知ることも稀《まれ》になって行ったが、おそらく鴎外漁史なぞはあの通り休息することを知らないような人だから、当時その書斎とする観潮楼《かんちょうろう》の窓から、文学の推し移りなどを心静かに、注意深くも眺めておられたかと思う。そして柳浪《りゅうろう》、天外、風葉等の作者の新作にも注意し、又、後進のものの成長をも見まもっていてくれたろうと思う。明治文学も漸《ようや》く一変すべき時に向って来て、誰もが次の時代のために支度を始めたのも、明治三十年代であったと言っていい。
旧いものを毀《こわ》そうとするのは無駄な骨折だ。ほんとうに自分等が新しくなることが出来れば、旧いものは既に毀れている。これが仙台以来のわたしの信条であった。来《きた》るべき時代のために支度するということも、わたしに取っては自分等を新しくするということに外ならない。このわたしの前には次第に広い世界が展《ひら》けて行った。不自由な田舎教師の身には好い書物を手に入れることも容易ではなかったが、長く心掛けるうちには願いも叶《かな》い、それらの書物からも毎日のように新しいことを学んだ。わたしはダルウィンが「種の起原」や「人間と動物の表情」なぞのさかんな自然研究の精神に動かされ、心理学者サレエの児童研究にも動かされた。その時になってみると、いつの間にかわたしの書架も面目を改め、近代の詩書がそこに並んでいるばかりでなく、英訳で読める欧州大陸の小説や戯曲の類が一冊ずつ順にふえた。トルストイの「コサックス」や「アンナ・カレニナ」、ドストイエフスキイの「罪と罰」に「シベリアの記」、フロオベルの「ボヴァリイ夫人」、それにイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」はわたしの愛読書になった。一体、わたしが初めてトルストイの著作に接したのは、その小説ではなく、明治学院の旧い学窓を出た翌年かに巌本《いわもと》善治氏夫妻の蔵書の中に見つけた英訳の「労働」と題する一小冊子であったが、そんな記憶があるだけでも旧知にめぐりあう思いをした上に、その正しい描写には心をひかれ、千曲川の川上にあたる高原地の方へ出掛けた折なぞ、トルストイ作中の人物をいろいろ想像したり、見ぬ高加索《コーカサス》の地方へまで思いを馳《は》せたりしたものであった。当時わたしは横浜のケリイという店からおもに洋書を求めていたが、その店から送り届けてくれたバルザックの小説で、英訳の「土」も長くわたしの心に残った。不思議にもそれらの近代文学に親しんでみることが反って古くから自分等の国にあるものの読み直しをわたしに教えた。あの溌剌《はつらつ》として人に迫るような「枕の草紙」に多くの学ぶべきもののあるのを発見したのも、その時であった。
今から明治二十年代を振り返ってみることは、私に取って自分等の青年時代を振り返ってみることであるが、あの鴎外漁史なぞが「舞姫」の作によって文学の舞台に登場せられたのは二十年代も早い頃のことであり、「新著百種」に「文づかい」が出たのも二十四年の頃であったと思う。だんだん時がたった後になってみると、当時の事情や空気がそうはっきりと伝わらなくなり、多くの人に残る記憶も前後して朦朧《もうろう》としたものとなり勝ちであるが、明治の文学らしい文学はあの二十年代にはじまったと言っていい。今日明治文学として残っているものの一半は殆《ほとん》どあの十年間に動いた人達の仕事であるのを見ても、明治二十年代は筆執り物書くものが一斉に進むことの出来たような、若々しい一時代であったことが思われる。これには種々な理由があろう。当時は新日本ということが多くの人々によって考えられ、新しい作者を求める社会の要求の強かったことも、その理由の一つとして数えられよう。長谷川二葉亭《はせがわふたばてい》の「浮雲」があれほどの新しさを私達の胸中に喚《よ》び起したのも、その要求をみたし得たからであって、あれほど鮮《あざや》かに当時を反映し、当時を批評した作品もめずらしかった。一方にはまた、鴎外漁史のような人があって、レッシングの「俘《とりこ》」、アンデルセンの「即興詩人」、その他の名訳をつぎつぎに紹介せられたことも、当時の文学の標準を高める上に、少からぬ影響を多くの作者に与えた。「水沫集《みなわしゅう》」一巻は、青春の書というにはあまり老成なような気もするが、明治二十年代の早い春はあの集のどの頁《ページ》にも残っている。
もし、明治二十年代の文学があの調子で進むことが出来たら、その発達には見るべきものがあったろうに、それが最初のような純粋を失い、新鮮を失うようになって行ったに就いては、種々な原因がなくてはならない。
ともあれ、当時発達の途上にあった言文一致の基礎工事がまだまだ不十分なものであったこと
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