らしかった。破れた屋根の下で、牧夫は私達の為に湯を沸かしたり、茶を入れたりしてくれた。
 壁には鋸《のこぎり》、鉈《なた》、鎌《かま》の類を入れた「山猫」というものが掛けてあった。こんな山の中までよく訪ねて来てくれたという顔付で、牧夫は私達に牛飼の経験などを語り、この牧場の管理人から月に十円の手宛《てあて》を貰《もら》っていることや、自分は他の牧場からこの西《にし》の入《いり》の沢へ移って来たものであることなどを話した。牛は角がかゆい、それでこすりつけるようにして、物を破壊《こわ》して困るとか言った。今は草も短く、少いから、草を食い食い進むという話もあった。
 牧夫は一寸考えて、見えなくなった牛のことを言出した。あの山間《やまあい》の深い沢を、山の湯の方へ行ったかと思う、とも言った。
「ナニ、あの沢は裾まで下りるなんてものじゃねえ。柳の葉でもこいて食ってら」
 こう復《ま》た考え直したように、その牛のことを言った。
 間もなく私達は牧夫に伴われて、この番小屋を出た。牧夫は、多くの牛が待っているという顔付で、手に塩を提げて行った。途次《みちみち》私達に向って、「この牧場は芝草ですから、牛の為に好いです」とか「今は木が低いから、夏はいきれていけません」とか、種々《いろいろ》な事を言って聞かせた。
 ここへ来て見ると、人と牛との生涯が殆《ほと》んど混り合っているかのようである。この老爺は、牛が塩を嘗《な》めて清水を飲みさえすれば、病も癒《い》えるということまで知悉《しりつく》していた。月経期の牝牛《めうし》の鳴声まで聞き分ける耳を持っていた。
 アケビの花の紫色に咲いている谷を越して、復た私達は牛の群の見えるところへ出た。牧夫が近づいて塩を与えると、黒い小牛が先ず耳を振りながらやって来た。つづいて、額の広い、目付の愛らしい赤牛や、首の長い斑《ぶち》なぞがぞろぞろやって来て、「御馳走《ごちそう》」と言わないばかりに頭を振ったり尻尾《しっぽ》を振ったりしながら、塩の方へ近づいた。牧夫は私達に、牛もここへ来たばかりには、家を懐《なつか》しがるが、二日も経てば慣れて、強い牛は強い牛と集り、弱い牛は弱い牛と組を立てるなどと話した。向うの傾斜の方には、臥《ね》たり起きたりして遊んでいる牛の群も見える……
 この牧場では月々五十銭ずつで諸方《ほうぼう》の持主から牝牛を預っている。そういう牝牛が今五十頭ばかり居る。種牛は一頭置いてある。牧夫が勤めの主なるものは、牛の繁殖を監督することであった。礼を言って、私達はこの番人に別れた。
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   その二


     青麦の熟する時

 学校の小使は面白い男で、私に種々《いろいろ》な話をしてくれる。この男は小使のかたわら、自分の家では小作を作っている。それは主に年老いた父と、弟とがやっている。純小作人の家族だ。学校の日課が終って、小使が教室々々の掃除をする頃には、頬《ほお》の紅い彼の妻が子供を背負《おぶ》ってやって来て、夫の手伝いをすることもある。学校の教師仲間の家でも、いくらか畠のあるところへは、この男が行って野菜の手入をして遣《や》る。校長の家では毎年|可成《かなり》な農家ほどに野菜を作った。燕麦《からすむぎ》なども作った。休みの時間に成ると、私はこの小使をつかまえては、耕作の話を聞いてみる。
 私達の教員室は旧士族の屋敷跡に近くて、松林を隔てて深い谷底を流れる千曲川《ちくまがわ》の音を聞くことが出来る。その部屋はある教室の階上にあたって、一方に幹事室、一方に校長室と接して、二階の一|隅《ぐう》を占めている。窓は四つある。その一方の窓からは、群立した松林、校長の家の草屋根などが見える。一方の窓からは、起伏した浅い谷、桑畠《くわばたけ》、竹藪《たけやぶ》などが見える。遠い山々の一部分も望まれる。
 粗末ではあるが眺望《ちょうぼう》の好い、その窓の一つに倚《よ》りながら、私は小使から六月の豆蒔《まめまき》の労苦を聞いた。地を鋤《す》くもの、豆を蒔くもの、肥料を施すもの、土をかけるもの、こう四人でやるが、土は焼けて火のように成っている、素足で豆蒔は出来かねる、草鞋《わらじ》を穿《は》いて漸《ようや》くそれをやるという。小使は又、麦作の話をしてくれた。麦一ツカ――九十坪に、粉糠《こぬか》一斗の肥料を要するとか。それには大麦の殻と、刈草とを腐らして、粉糠を混ぜて、麦畠に撒《ま》くという。麦は矢張小作の年貢《ねんぐ》の中に入って、夏の豆、蕎麦《そば》なぞが百姓の利得に成るとのことであった。
 南風が吹けば浅間山の雪が溶け、西風が吹けば畠の青麦が熟する。これは小使の私に話したことだ。そう言えば、なまぬるい、微《かすか》な西風が私達の顔を撫《な》でて、窓の外を通る時候に成って来た。

     少年の群
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