》わずに置いた日のことを考えた。あらゆる夫婦らしい親密《したしみ》も快楽《たのしみ》も行って了ったことを考えた。おせんは編物ばかりでなく、手工に関したことは何でも好きな女で、刺繍《ししゅう》なぞも好くしたが、終《しまい》にはそんな細い仕事にまぎれてこの部屋で日を送っていたことを考えた。
 悲しい幕が開けて行った。大塚さんはその刺繍台の側に、許し難い、若い二人を見つけた。尤《もっと》も、親しげに言葉の取換《とりかわ》される様子を見たというまでで、以前家に置いてあった書生が彼女の部屋へ出入《ではいり》したからと言って、咎《とが》めようも無かったが……疑えば疑えなくもないようなことは数々あった……彼は鋭い刃物の先で、妻の白い胸を切開いて見たいと思った程、烈《はげ》しい嫉妬《しっと》で震えるように成って行った。
 そこまで考え続けると、おせんのことばかりでなく、大塚さんは自分自身が前よりはハッキリと見えて来た。そういう悲しい幕の方へ彼女を追い遣《や》ったのは、誰か。よしんばおせんは、彼女が自分で弁解したように、罪の無いものにもせよ――冷やかに放擲《うっちゃらか》して置くような夫よりは、意気地は無くとも親切な若者を悦《よろこ》んだであろう。それを悦ばせるようにしたものは、誰か。そういうことを機会に別れようとして、彼女の去る日をのみ待っていたものは、一体誰か。
 制《おさ》え難い悔恨の情が起って来た。おせんがこの部屋で菫の刺繍なぞを造ろうとしては、花の型のある紙を切地《きれぢ》に宛行《あてが》ったり、その上から白粉《おしろい》を塗ったりして置いて、それに添うて薄紫色のすが糸を運んでいた光景《さま》が、唯|涙脆《なみだもろ》かったような人だけに、余計可哀そうに思われて来た。大塚さんは、安楽椅子に倚《よ》りながら、種々《いろいろ》なことを思出した。若い妻が訳もなく夫を畏《おそ》れるような眼付して、自分の方を見たことを思出した。彼女の鼻をかむ音がよくこの部屋から聞えたことを思出した。
 今居る書生の一人がそこへ入って来た。訪問の客のあることを告げた。大塚さんは沈思を破られたという風で、誰にも逢いたくないと言って、用事だけ聞いて置くようにとその書生に吩咐《いいつ》けた。
「いずれ会社のものを伺わせます、その節は電話で申上げますッて、そう言ってくれ給え」
 と附添えて言った。大塚さんが客
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