のうちのことで、大橋の上を通る人もそれほど多くなく、松江市の活動は街路を清潔にすることから始められるやうな時であつた。それでも境行の小蒸汽船が橋の畔に客を待つところまで行つて見ると、一番の定期船に乘りおくれまいとするやうな人達が、澤山持ち込んだ荷物と一緒に、船室にも甲板の上にも溢れてゐた。
松江市は宍道湖と中の海とを左右に控へた中央の位置にある。その二つの水をつなぐ長い運河のやうな大橋川の岸に沿うて、小蒸汽は動いて行つた。やがて私達の出て行つたところは、湖水のやうに靜かな中の海の入江であつた。岸にある崖の赤いのと草の緑とは、行く先で私達の眼をひいた。
「こんもりとした杜《もり》が見えますね。神社も見えますね。樹木のあるところは神の住居だと考へたのが、古代の人の信仰だつたさうですね。二柱の神なぞといふ數へ方も、さういふところから來てるといふぢやありませんか。」
私達はこんなことを語り合つて身動きも出來ないほど乘客の多い甲板の上の暑苦しさを僅かに慰めて行つた。この入江には、大根島《だいこんじま》と呼ぶ島もある。村落二つほどもあるかなり大きな島だ。牡丹の花で名高い。春先には驚くばかり美し
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