の洞口へと通じてゐて、この深い洞窟の奧を船で一※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りすることも出來た。
それにしても、七つ穴とはあまりに殺風景な名だ。岡田丸に戻つてからの私達の間には、その話も出た。その邊の海岸を東金剛、西金剛といふところから、私はそれに因んで、「金剛洞」と呼んで見た。この新しい洞窟の名は、渡邊君はじめ同行の人達を悦ばしたらしい。
船は更に出雲浦を進んで行つた。多古の鼻を過ぐるころには、隱岐《おき》もかすかに望まれた。島前《どうぜん》、島後《どうご》。その二つの島影がそれだ。海路としては、その邊が隱岐への最短の距離にあるといふ。私達は瀬崎の港を通り過ぎた時に、袖掛《そでか》け松なぞに遺《のこ》る後醍醐天皇の故事を聞いたが、今また隱岐の見えるところへ來て、あの島に十數年を送られたといふ後鳥羽院の故事をも聞いた。歴代の天皇の中でも、あの後鳥羽院が伏見院と並んで多くのすぐれた歌を後世まで遺されたといふことも、さうした境涯に激發されたためであつたらうか。歴史上の懷古にもまして旅するものの胸をうつのは、そこに殘つた人間苦である。水平線のかなたはと見ると、海と空とが殆ど同じ色に光つて、午後五時ごろの日が漸く斜に甲板の上に射して來るやうになつた。
新舊二つある潜戸《くゞりど》の洞窟の内へも小舟を進めて見た。殊に新潜戸の方には、美しい傳説が織り込まれてある。伎佐貝比賣《いさかひひめ》の命《みこと》といふ妙齡の女神が愛する男神との間に王子を設け隱れた産家として選んだのがこの海岸の洞窟であるといひ傳へられてゐる。こゝは海の女神の住居であつたといふことも、あながち誇張とのみは思はれない。海の神祕は、それほど凄い美しさで私達をその深い力の中に引き入れる。人はこんなところへ來ると、早く逃げて歸りたいと思ふか、あるひは歸ることを忘れるか、どちらかだ。
同行の人達は次第に半日の船旅に倦んだ。その時になつて見ると一番體格の好い渡邊君の動作が眼につく。精力のさかんな同君は私の側へ來て、いろ/\な土地の話を聞かせたり、海圖をそこへ取寄せて見せたりなぞして、倦むといふことを知らない。私はこの渡邊君に言つて見た。
「一體、この山陰道を裏日本とは、どういふ譯でせう。大陸に向つた海岸の位置からいへば、こつちの方が表日本であつていゝ譯ですね。」
それを聞くと、渡邊君は感慨深い眼付
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