した。車中の人達は、と見ると窓のガラス戸を閉めたり開けたりするのに忙がしいものがある。襲ひくる煙のうづ卷く中で、卷煙草の火を光らせるものがある。ハンケチに顏をおほうて横になるものがある。石炭のすゝにまみれて、うつかり自分等の髮にもさはられないくらゐであつた。幾たびとなく私は黒ずみ汗ばんだ手を洗ひに行つて、また自分の席へ戻つて來た。鷄二などは次第にこの汽車旅にうんで、たゞうと/\と眠りつゞけて行つた。鐵道の從業員が京都方面へ乘換の人は用意せよと告げにくるころになつて、漸く私の相棒も眼を覺ました。
 福知山は北丹鐵道乘換の地とあつて、大阪からも鐵道線路の落ち合ふ山の上の港のやうなところである。そこには兵營もある。ちよつと松本あたりを思ひださせる。午後の二時近い頃に私達はその驛に掲げてある福知山趾、大江山、鬼の岩窟などとした名所案内の文字を讀んだ。果物の好きな鷄二は、呼び聲も高く賣りにくる夏蜜柑を買ひ求めなどした。僅かの停車時間もあつたから私は汽車から降りて、長い歩廊《プラツトホーム》をあちこちと歩いて見、生絲と織物の産地と聞く福知山の市街を停車場から一目見るだけに滿足してまた動いてゆく車中の人となつた。
 下夜久野《しもやくの》の驛まで行つた。たま/\汽車の窓から舞ひ込んでくる氣まぐれな蜂などがあつて、そんな些細な事も車中の人達の無聊をなぐさめた。その邊から上夜久野《かみやくの》へかけては、山家らしい桑畑の多いところだ。ところ/″\に成長する芭蕉や棕梠をも見る。信州あたりの耕地を見慣れた眼には、田植に使はれてゐる牛を見かけるのもめづらしい。鷄二は私にいつた。「今頃、田植をやつてる。七月に入つてから田植なんてことはないよ。よつぽど水がなかつたんだね。」
 そこいらに出て働いてゐる男や女がゆく先で私達の眼につくのも、鷄二の兄の楠雄が同じ農業に從事してゐるからで。私達がその邊の田舍を窓の外に眺めながら乘つてゆく心は、やがて自分等の郷里の方の神坂《みさか》から落合へ通ふ山路なぞを遠く思ひだす心であつた。

 山陰らしい特色のある眺めが次第に私達の前に展開するやうになつた。何となく地味も變つて來て、ところ/″\に土の色の赤くあらはれたのが眼につく。滴るばかりの緑に包まれた崖も、野菜のつくつてある畑も赤い。この緑と赤の調和も好い。關東地方の農家を見慣れた眼には、特色のある草屋根の形
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