があつて、その人の心からこの寺に保存されてあるやうな應擧の作品の生れて來たといふことは、その一つである。こゝには應擧の作品ばかりでなく、彼の友達の畫もあり、彼の弟子達の繪もあつて、圓山派一門の美術家の親しみがいかにもよく感じられるといふことも、その一つである。應擧はその若く貧しかつた時代に密英上人から寄せられた厚意と友情とを忘れないで、呉春、蘆雪、源埼、その他の弟子達を伴ひ、京都から但馬までの山坂を越えて、二度までもこの寺の壁、襖、屏風などを描きに來たといふ。おそらく、この大乘寺の位置が京都か奈良の附近にでもあるとしたら、もつと廣くも世に知られてゐたらう。さういふ私なども半生の旅の多くは關東方面に限られてゐて、この年になるまで大乘寺の名さへも聞かなかつた。かういふ寺を山陰道の田舍に置いて考へることも、しかし樂しい。應擧の作品についても、私は今日まで僅かしか知る機會を持たなかつたが、來て見て動かされた。
 この寺の内部は、佛殿を中心にした十一の部屋と、それに附屬した二つの部屋と、別に二階にある二つの部屋とから成り立つ。そのうちの十三の部屋が圓山派一門の畫で滿たされてゐる。寺としての設計も、簡素ではあるが、かなり大きい。私達は佛殿を前にして孔雀の間に行つて、應擧の畫の前に立つて見た。そこは二十五疊からの大廣間で、十六枚の襖が一つの大きな構圖のもとにまとめてある。黒と金との強い調和だ。寺の一隅にあたる芭蕉の間へも行つて立つて見た。十二疊半の部屋で、八枚の襖に郭子儀《くわくしぎ》のやうな支那風の人物と、芭蕉のもとに嬉戲する子供等のさまとが描いてある。そこには緑と金との柔かな調和が見られるばかりでなく、何となくひろ/″\とした藝術家の心までが感じられる。その隣にはまた二十五疊半といふ一番廣い部屋があつて、應擧の山水の圖の前へも行つて立つて見た。その部屋の片隅によせて、ふくろだなが造りつけてあつて、枇杷、葡萄などの靜物を描いた四枚の小襖も私達の心をひいた。昔の藝術家はいかによく自然を見たことか、あの鯉の圖などで應擧の寫生といふものを單純に想像してゐた私は、その日頃の考へ方を改めなければならないやうに思つた。
 好いものを見た。その樂しい旅の心持で大乘寺を辭した頃は、約束しておいた自動車が容易にやつて來なかつた。私達は寺の前にあつた煙草屋の縁臺をかりて、自分等のくゞつて來た山門、
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