た。私は西は土佐あたりまでしか知らない。山陰山陽方面には全く足を踏みいれたことがない。山陰道とはどんなところか。さう思ふ私は、多くの興味をかけて東京を發《た》つて來たと同時に、一方には旅の不自由を懸念しないでもなかつた。地名のむづかしさには、まづ苦しむ。しかし、鷄二とさし向ひに汽車の窓際に腰かけて、一緒に乘つてゆく男女の旅客の風俗を眺めたり、大阪の宿からもらつて來た好ましい扇子などを取り出して見たりするころには、私もこの旅に上つてくるまでのいろ/\な心づかひを忘れてゐた。
 大阪近郊の平坦な地勢は、甲《かぶと》、武庫《むこ》、六甲《ろくかふ》の山々を望むあたりまで延びて行つてゐる。耕地はよく耕されてゐて、ぶだう畠、甘藷の畠なぞを除いては、そこいらは一面の青田だ。まだ梅雨期のことで、眼にいるものは皆涼しく、そして憂鬱であつた。伊丹から池田までゆくと、花を造つた多くの畠を見る。街路樹のベツドかと見えて、篠懸《すゞかけ》の苗木が植ゑてあり、その間には紫陽花《あぢさい》なぞがさき亂れてゐた。さすがにその邊までは大阪のやうな大きな都會を中心に控へた村々の續きらしくも思はれた。

 大阪から汽車で、一時間半ばかり乘つてゆくうちに、はや私達はかなりの山間に分け入る思ひをした。同車した乘客のなかには、石のあらはれた溪流を窓の外に指さして見せて、それが武庫川であると私達に教へてくれる人もある。これからトンネル一つ過ぎると丹波の國であるとか、こゝはまだ攝津の中であるとか、そんなことを語り合ふのも汽車の旅らしかつた。
 正午過ぐるころに、藍本《あゐもと》といふひなびた停車場を通つて丹波の國に入つた。まだ私達は半分大阪の宿にゐる氣がしてあの關西風の格子戸や暗くはあるが清潔な座敷からいくらも離れて來てゐないやうな心地もしてゐたのに、眼に見るものは全くそれらとかけはなれた緑の世界であつた。ところ/″\にさいた姫百合の花も周圍の單調を破つてゐた。古市《ふるいち》の驛を通り過ぎたところには、どつちを向いて見ても滴るやうな濃い緑ばかり。宛《あた》かも青い木の葉を食ふ蟲の血が緑色であるやうに、私達の總身の血潮までその濃い緑に變るかと疑はれるばかりだ。思ひ比べると、大阪の宿で見て來た庭の草木の色はなかつた。半生を東京の町中に多く暮して來た私などが、あの深い煤煙と塵埃との中に息づいてゐるやうな幹も草も黒ず
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