奥様が居て下さるのは――籠《かご》に鶯《うぐいす》の居るように思召《おぼしめ》して、私でさえ御気毒に思う時でも御腹立もなさらないのでした。旦那様は銀行から御帰りになると、時々両手を組合せて、御庭の夏を眺めながら憂愁《ものおもい》に沈んでおいでなさることもあり、又、日によっては直に御二階へ御上りになって、御飯の時より外《ほか》には下りておいでなさらないこともありました。奥様が御気色《ごきしょく》の悪い日には旦那様は密《そっ》と御部屋へ行って、恐々《おずおず》御傍へ寄りながら、「綾さん、どっか悪いのかい。こんな畳の上に寝転んでいて、風でも引いちゃ不可《いけな》いじゃないか。そうしていないで、診《み》て貰《もら》ってはどうだね」と御聞きなさる。「いいえ、関《かま》わずに置いて下さい」というのが奥様の御返事でした。
 変れば変るものです。奥様は御独《おひとり》で縁側に出て、籠の中の鳥のように東京の空を御眺めなさることもあり、長い御手紙を書きながら啜泣《すすりなき》をなさることも有ました。時によると、御寝衣《おねまき》のまま、冷々《ひやひや》した山の上の夜気に打れながら、遅くまで御庭の内を御歩きなさることも有ました。
 秋のはじめから、奥様は虫歯の御煩《おわずらい》で時々|酷《ひど》い御苦痛《おくるしみ》をなさいましたのです。烈《はげ》しくなると私を御離しなさらないで、切ないような目付をなさりながら、私の背《せなか》に御頭《おつむり》を押しつけておいでなさる。耳から頬へかけて腫起《はれあが》りまして、御顔色は蒼ざめ、額もすこし黄ばんでまいります。これには旦那様も大弱りで、御自分の額を撫《な》でたり、大きな手を揉んで見たりして、御介抱をなさいましたのです。
 と申したような訳で、よく歯医者が黒い鞄《かばん》を提げてやって参りました。
 歯医者というのは、桜井さんと言って、年はまだ若いが、腕はなかなか有ました。私が勝手口の木戸を開けて、河ばたの石の上に蹲跼《しゃが》みながら、かちゃかちゃと鍋《なべ》を洗っていると、この人が坂の下の方から能く上って参りました。慣々《なれなれ》しく私の傍《そば》へ来て、鍋の浸《つ》けてある水中《みずのなか》を覗いて見たり、土塀から垂下っていた柿の枝振《えだぶり》を眺めたり、その葉裏から秋の光を見上げたりして、何でもない主家《うち》の周囲《まわり》を、さも面白そうに歩くのが癖でした。この人は東京の生ですから、新しい格子作を見る度《たび》に、都を想起《おもいだ》すと言っておりました。一体、東京から来る医者を見ると、いずれも役者のように風俗《みなり》を作っておりますが、さて男振《おとこぶり》の好《いい》という人も有ません。然し、この歯医者ばかりは、私も風采《ようす》が好と思いましたのです。
 この人が来る時は、よく私に物を携《も》って来てくれました。この人が帰って去《い》った後で、爺さんは必《きっ》と白銅を一つ握っておりました。
 或日、旦那様は銀行の御用で御泊掛《おとまりがけ》に上田まで御出ましでした。その晩は戸も早く閉めました。私も、さっさと台所を片付けたいと思い、鍋は伏せ、皿小鉢は仕舞い、物置の炭をかんかん割って出し、猫の足跡もそそくさと掃《ふ》いて、上草履《うわぞうり》を脱ぎまして、奥様の御部屋へ参りました。まだ宵の口から、奥様は御横におなりなすって、寝ながら小説本を御覧なさるところでした。誰を憚《はばか》るでもない気散じな御様子。あらわな御胸の白い乳房もすこし見えて、左の手はだらりと畳の上に垂れ、右の足は膝頭から折曲げ、投げだした左の足の長い親指の反《そ》ったまで、しどけない御姿は花やかな洋燈《ランプ》の夜の光に映りまして、昼よりは反《かえっ》て御美しく思われました。
「奥様、御足《おみあし》でも撫《さす》りましょうか」
 と私は御傍へ倚添《よりそ》いました。
「ああ、もうお済かい」と奥様は起直って、懐《ふところ》を掻合《かきあわ》せながら、「お前、按摩《あんま》さんをしてくれるとお言いなの。今日はね、肩のところが痛くて痛くて――それじゃ、一つ揉んで見ておくれな」
「あれ、御寝《およ》っていらしったら、どうでございます」
「なに、起きましょうよ」
 私はよく母親《おふくろ》の肩を揉せられましたから、その時奥様のうしろへ廻りまして、柔《やわらか》な御肩に触ると、急に母親を想出しました。母親の労働《はたら》く身体から思えば、奥様を揉む位は、もう造作もないのでした。
「お世辞でも何んでもないが、お定はなかなか指に力があるのねえ。お前のように能くしておくれだと、真実《ほんとう》に私ゃ嬉しい。旦那様も、日常《しょっちゅう》褒《ほ》めていらっしゃるんだよ」
 それから奥様は私の器量までも御褒め下さいました。奥様が私を御褒め下さるのは、いつも謎《なぞ》です、――御器量自慢でいらっしゃるのですから。その時も私の方から、御褒め申せば、もう何よりの御機嫌で、羽翅《はがい》を張《ひろ》げるように肩を高くなすって、御喜悦《およろこび》は鼻の先にも下唇にも明白《ありあり》と見透《みえす》きましたのです。
「ねえ、お定、お前は吾家《うち》へ来る御客様のうちで、誰様《どなた》が一番|好《いい》とお思いだえ」
「そうで御座ますねえ……まあ、奥様から仰《おっしゃ》って見て下さい」
「否《いいえ》、お前からお言いよ」
「私なぞは誰様が好か解りませんもの」
「あれ、そうお前のように笑ってばかりいちゃ仕様がない」
「それじゃ笑わずに申しますよ。ええ、と、銀行の吉田さん」
「いやよ、あんな老爺染《じじいじみ》た人は――戯《ふざ》けないでさ。真実《ほんとう》に言って御覧」
 私はそれから、種々《いろいろ》なお方を数えて申しました。島屋の若旦那、越後屋の御総領、三浦屋の御次男、荒町の亀惣《かめそう》様、本町の藤勘様――いずれ優劣《おとりまさり》のない当世の殿方ですけれど、成程奥様の御話を伺って見れば、たとえ男が好くて持物等の嗜《たしなみ》も深く、何をさせても小器用なと褒められる程の方でも、物事に迷易くて毎《いつ》も愚痴ばかりでは頼甲斐《たのみがい》のない様にも有《あり》、世智賢《せちがしこ》くて痒《かゆ》いところまで手の届く方は又た女を馬鹿にしたようで此方の欠点《あら》まで見透されるかと恐しくもあるし、気前が面白ければ銭遣《ぜにづかい》が荒く、凝性《こりしょう》なれば悟過ぎ、優しければ遠慮が深し、この方ならばと思うような御人《おひと》は弱々しくて、さて難の無い御方というのは、見当らないのでした。
「そんなら、奥様、あの桜井さんは」
「そうお前のように、私にばかり言わせて……お前も少許《ちったあ》言わなくちゃ狡猾《ずる》いよ。あの方をお前はどう思うの」
「桜井さんで御座いますか。実《ほんと》に歯医者なぞをさして置くのは惜しいッて、人が申すんで御座いますよ」
「ホホホホホ、それじゃ何に御成《おなん》なされば好と言うの」
「あの、官員様にでも……」
「ホホホホホ」
「あれ、女であの方を褒めない者は御座ません。奥様、貴方《あなた》も桜井さん贔負《びいき》じゃ御座ませんか」
 奥様は目を細くなさいました。何とも物は仰いませんでしたけれど、御顔を見ているうちに、美しい朱唇《くちびる》が曲《ゆが》んで来て、終《しまい》に微笑《にっこりわらい》になって了いました。
 洋燈《ランプ》の側にうとうとしていた猫が、急に耳を振って、物音に驚いたように馳出《かけだ》したので、奥様も私も殿方の御噂さを休《や》めて聞耳を立てていますと、須叟《やがて》猫は御部屋へ帰って来て、前|脚《あし》を延しながら一つ伸《のび》をして、撓垂《しなだれ》るように奥様の御膝へ乗りました。御子様がないのですから、奥様も恰《さ》も懐しそうに抱〆《だきしめ》て、白い頬をその柔い毛に摺付《すりつけ》て、美しい夢でも眼の前を通るような溶々《とけどけ》とした目付をなさいました。
 つい側に針箱が有ました。奥様はそれを引寄せて、引出のなかから目も覚めるような美しい半|襟《えり》を取出して、「こないだから、これをお前に上げよう上げようと思っていたんだよ」
 と仰りながら私に掴《つか》ませました。夜のことですから、紫|縮緬《ちりめん》が小豆《あずき》色に見えました。私は目を円くして、頂いてよいやら、悪いやらで、さんざん御断りもして見たのです。
「あれ、お前のようにお言《いい》だと、私が困るじゃないか。そんなに言う程の物じゃないんだよ。お前がよく勤めておくれだから、寸《ほん》の私の志と思っておくれ。……いいからさ、それは仕舞ってお置き」
 奥様はまだ何か言いたそうにして、それを言得ないで、深い歎息《ためいき》を御吐《おつ》きなさるばかりでした。危い絶壁《がけ》の上に立って、谷底でも御覧なさるような目付をなさりながら、左右を見廻して震えました。「お前だから話すがねえ」までは出ましても、二の句が口|籠《ごも》って、切れて了います。
「今夜私がお前に話すことは、決して誰にも話さないという約束をしておくれ。それを聞かないうちは――然しお前に限ってそんな軽卒《かるはずみ》なことはあるまいけれど」
 幾度も念を押して、まだ仰り悪《にく》いという風でしたが、さて話そうとなると、急に御顔が耳の根元までも紅くなりました。
 遂々《とうとう》奥様は御声をちいさくなすって、打開けた御話を私になさいました。その時、私は始めて歯医者とのこれまでの関係を聞きましたのです。私は手を堅く握〆られて、妙に顔が熱《ほて》りました。他《ひと》から内証を打開《うちあ》けられた時ほど、是方《こっち》の弱身になることはありません。思いつめた御心から掻口説《かきくど》かれて見れば、終《しまい》には私もあわれになりまして、染々《しみじみ》御身上《おみのうえ》を思遣りながら言慰《いいなぐさ》めて見ました。奥様は私の言葉を御聞きなさると、もう子供のように御泣きなさるのでした。
 拠《よんどころ》なく、私も引受けて、歯医者に逢わせる御約束をしましたら、漸《やっ》と、その時、火のように熱い御手が私から離れたようにこころづきました。
 その晩は、私も仮《ほん》の出来心で、――若い内に有勝《ありがち》な量見から。
 然し、悪戯《いたずら》が悪戯でなくなって、事実《ほんとう》も事実《ほんとう》も恐しい事実になって行くのを見ては、さすがに私も震えました。私は後暗いと、恐しいとで、噂さを嗅附《かぎつ》ける犬のようになって、御人の好い旦那様にまで吠《ほ》えました。
 或時は自分で責められるような自分の心を慰めて見たこともありましたのです。全く道ならぬ奥様の恋とは言いながら、思の外のあわれも有ましたので。人の知らない暗涙《なみだ》は夜の御床に流れても、それを御話しなさるという女の御友達は有ませんので。ですから、私は独り考えて、思い慰めました。
 さ、それです。
 奥様は暖い国に植えられて、軟《やわらか》な風に吹かれて咲くという花なので。この荒い土地に移されても根深く蔓《はびこ》る雑草《くさ》では有ません。こうした御慣れなさらない山家住《やまがずまい》のことですから、さて暮して見れば、都で聞いた田舎生活《いなかぐらし》の静和《しずかさ》と来て視《み》た寂寥《さびしさ》苦痛《つらさ》とは何程《どれほど》の相違《ちがい》でしょう。旦那様は又た、奥様を籠の鳥のように御眺めなさる気で、奥様の独り焦《じれ》る御心が解りませんのでした。何時《いつ》、羽根を切られた鳥の心が籠に入れて楽しむという飼主に解りましょう。何程、世間の奥様が連添う殿方に解りましょう。――女の運はこれです。御縁とは言いながら、遠く御里を離れての旅の者も同じ御身上《おみのうえ》で、真実《ほんと》に同情《おもいやり》のあるものは一人も無い。こればかりでも、女は死にます。奥様の不幸《ふしあわせ》な。歓楽《たのしみ》の香《におい》は、もう嗅いで御覧なさりたくも無いのでした。奥様は歎《な》き疲《くたぶ》れて、乾いた草のように
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