着ていらっしゃらないんですか」
「なんだか私は……こう急に気分が悪く成りましたから、今夜は帰ります」
「お帰りなさるたッて、このまあ雪に……。貴方の着物は未だ乾かないじゃ有ませんか」
「なあに、構いません。尻端《しりはし》を折れば大丈夫」
「まあ、真実《ほんとう》に御帰りなさるんですか。それじゃ、あんまりですわ……」
歯医者は躊躇《もじもじ》して、帽子を拈《ひね》っておりましたが、やがて萎《しお》れて坐りました。
「無理に御留め申しませんから……もう少し居て下さいな」
「然し、またあんまり遅くなると……」
「遅くなったって好じゃありませんか。まあもうすこし」
「そう仰らずに、今夜だけは帰して下さい」
「そんなら、もう二十分」
五
誰言うとなく、いつ伝わるともなく、奥様の浮名が立ちました。万《よろず》御注進の髪結が煙草を呑散した揚句、それとなく匂わせて笑って帰りました時には、今まで気を許していらしった奥様も考えて、薄気味悪く思うようになりました。銀行からは毎日のように旦那様の御帰を聞きによこす。長野からも御便《おたより》が有ました。御客様は外の御連様と別所へ復廻《おまわり
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