忍ばせました。私は立って参りまして表の戸を開けながら、
「御父さん、何しに来たんだよ……今頃」
「はい、道に迷ってまいりやした」と舌も碌々《ろくろく》廻りません様子。
「仕様がないなア、こんなに遅くなって人の家へ無暗《むやみ》に入って来て」
 親とは言ながら奥様の手前もあり、私は面目ないと腹立《はらだた》しいとで叱《しか》るように言いました。もう奥様は其処へいらしって、燈火《あかり》に御顔を外向《そむ》けて立っておいでなさるのです。
「お定の御父さんですか」
「否《いいえ》、そうじゃごわしねえ。私《わし》は東京でごわす」
 と恍《とぼ》け顔に言|淀《よど》んで、見れば手に提げた菎蒻《こんにゃく》を庭の隅《すみ》へ置きながら蹣跚《よろよろ》と其処へ倒れそうになりました。
「これ、さ、そんな処へ寝ないで早く御行《おいで》よ」
「まあ、いいから其処へ暫く休ませて遣《や》るが好《いい》やね」
「こんなに酔ったと言っちゃ寝てしまって仕方がありません。これ、御行《おいで》よ」
「そこですこし御休みなさい」
「はい」と父親《おやじ》は上框《あがりがまち》へ腰を掛けながら、
「私はお定さんに惚れて来や
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