していた下女」と言えば、一人が「柏木から来たおつぎさんよ」と言う。さあ、往来に立っている群のなかには噂《うわさ》とりどり。「今年は、めた水に祟《たた》る歳《とし》だのう、こないだも工女が二人河へ入《はま》って死んだというのに、復《また》、こんなことがある」「南無阿弥陀仏《なむあみだぶつ》。南無阿弥陀仏」「オイ何だい、情死《しんじゅう》かね」「情死じゃアねえが、大方|痴戯《いたずら》の果《はて》だろうよ」「いや、菊屋のかみさんが残酷《ひどい》からだ、以前《このまえ》もあそこの下女で井戸へ飛んだ者がある」などと言騒いでおります。死骸を担いだ人々が坂を上って来るにつれて、おつぎさんということは確に成りました。おつぎさん――ホラ、春雨あがりの日に井戸端で行逢って、私に調戯《からか》って通った女が有ましたろう。その時、私が水を掛ける真似《まね》をしたら、「好《いい》御主人を持って御|仕合《しあわせ》」と言って、御尻を叩《たた》いて笑った女が有ましたろう。
 丁度、日の光が灰色な雲の間から照りつけて、相生町通の草屋根の雪は大な塊《かたまり》になって溶けて落ちました。積った雪は烈《はげ》しい光を含んで、ぎらぎら輝きましたから、目も羞明《まぶ》しく痛い位、はっきり開《あ》いて見ることも出来ませんのでした。白く降埋《ふりうず》んだ往来には、人や馬の通る痕《あと》が一条《ひとすじ》赤く染《つ》いている――その泥交《どろまじ》りの雪道を、おつぎさんの凍った身体は藁蓆《むしろ》の上に載せられて、巡査|小吏《やくにん》なぞに取囲まれて、静に担がれて行きました。薦《こも》が被《か》けて有りましたから、死顔は見えません、濡乱れた黒髪ばかり顕れていたのです。
 それは胸を打たれるような光景《さま》でした。同じ奉公の身ですもの、何の心も無しに見てはおられません。私はもう腹立しさも口惜しさも醒《さ》めて、寂しい悲しい気に成ました。娘盛《むすめざかり》に思いつめたおつぎさんこそ不運な人。女の身程悲しいものは有りません。変れば変る人の身の上です。僅《わず》か小一年ばかりの間に、おつぎさんのこの変りようはどうでしょう。おつぎさんばかりでは有りません。旦那様も変りました。奥様も変りました。定めし母親《おふくろ》も変りましたろう。妹や弟も変りましたろう。――私とてもその通り。
 全く私も変りました。
 道々私は自分で自分を考えて、今更のように心付いて見ると、御奉公に上りました頃の私と、その頃の私とは、自分ながら別な人のようになっておりましたのです。華美《はで》な御生活《おくらし》のなかに住み慣れて、知らず知らず奥様を見習うように成りましたのです。思えば私は自然と風俗《なり》をつくりました。ひっつめ鬢《びん》の昔も子供臭く、髱《たぼ》は出し、前髪は幅広にとり、鏡も暇々に眺め、剃刀《かみそり》も内証で触《あ》て、長湯をしても叱られず、思うさま磨《みが》き、爪の垢《あか》も奇麗に取って、すこしは見よげに成ました。奥様から頂いた華美《はで》な縞《しま》の着古しに毛繻子《けじゅす》の襟《えり》を掛けて、半纏《はんてん》には襟垢《えりあか》の附くのを気にし、帯は撫廻し、豆腐買に出るにも小風呂敷を被《か》けねば物恥しく、酢の罎《びん》は袖に隠し、酸漿《ほおずき》鳴して、ぴらしゃらして歩きました。柏木の友達も土臭く思う頃は、母親のことも忘れ勝でした。さあ、私は自分の変っていたのに呆れました。勤も、奉公も、苦労も、骨折も、過去ったことを懐《おも》いやれば、残るものは後悔の冷汗ばかりです。
 こういうことに思い耽《ふけ》って、夢のように歩いて帰りますと、奥様は頭ごなしに、
「お前は何をしていたんだねえ。まあ本町まで使に行くのに一時間もかかってさ」
 と囓付《かみつ》くように仰いました。その時、私は奥様と目を見合せて、言うに言われぬ嫌《いや》な気持になりましたのです。怒った振《ふり》も気取《けど》られたくないと、物を言おうとすれば声は干乾《ひから》びついたようになる、痰《たん》も咽喉《のど》へ引懸る。故《わざ》と咳《せき》払して、可笑《おかし》くも無いことに作笑《つくりわらい》して、猫を冠っておりました。
 その晩は、まんじりともしません。始めて奉公に上りました頃は、昼は働に紛れても、枕に就くと必《きっ》と柏木のことを思出すのが癖になって、「御母さん、御母さん」と蒲団《ふとん》のなかで呼んでは寝ました。次第に柏木の空も忘れて、母親《おふくろ》の夢を見ることも稀《たま》に成りました。さ、その晩です。復《ま》た私の心は柏木の方に向きました。その晩程母親を恋しく思ったことは有ません。唐草《からくさ》模様の敷蒲団の上は、何時の間にか柏木の田圃《たんぼ》側のようにも思われて、蒲公英《たんぽぽ》が黄な花を
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