、父親は甘《うま》そうに一服頂いて、
「よう、奥様は未だ若えなア。旦那様《だんなさん》は――私旦那様の御顔も見て行きたい」
「旦那様は御留守だよ」と私が横から。
「幾時だ」と復《また》尋ねる。
「十一時半。主家《うち》じゃもう十時になれば寝るんだよ。さあ、さっさと御帰りよ」
「水を、も一つ上げましょう」
「沢山、もう頂きました」
「すこし沈静《おちつ》いたら、今夜は早く御帰りなさい。お定もああして心配していますから、ね、そうなさい」
「はい。はい。さあこれから行って復た芸者を揚げるんだ。六区へでも行かずか」
「さあ、そうだ、そうなさい」
「これは不調法を申しやした。御免なすって御くんなさい。酔えばこんなものだが、奥様、酔わねえ時は好い男だ。アハハハハハハ」
と、よろよろしながら立上りました。
「おやすみ、おやすみ」と可笑《おかし》な調子。
「何だねえ、確乎《しっかり》して御行《おいで》よ」と私は叱るように言いまして、菎蒻《こんにゃく》を提げさせて外へ送出す時に、「まあ、ひどい雪だ――気を注《つ》けて御行よ」と小声で言いました。
「お、や、す、み」
と歌のように調子をつけながら、千鳥足で出て行く。暫く私は門口に佇立《たたず》んで後姿を見送っておりますと、やがて生酔《なまよい》の本性《ほんしょう》を顕して、急にすたすたと雪の中を歩いて行きました。見れば腰付《こしつき》から足元からそれ程酔ってはいないのです。父親は直ぐ闇に隠れて見えなくなって了いました。
ホッと一息|吐《つ》いて、私は御部屋へ参って見ますと、押入のなかに隠れた人は頭かきかき苦笑《にがわらい》をしておりました。私は御気毒にもあり、御恥しくもあり、奥様の御傍へ寄添いながら、
「御父さんは上りにくいもので御座ますから、あんな酔った振をして、恍《とぼ》けて参ったんで御座ます」
「お前に逢い度《たい》からさ」
「私が是方《こちら》へ上る時に、『己《おれ》も一諸に行こう』と申しますから、誰がそんな人に行って貰うもんか、旦那様の御家へなんぞ来るのは止《よ》しとくれ、と言って遣りましたんで御座ます」
「逢い度ものと見えるねえ」
「『十月余も逢わねえじゃねえか、顔が見たくはねえか』なんて申しましたよ。馬鹿な、誰があんな酔ぱらいに逢い度もんか」
「御母《おっか》さんも心配していなさるだろうよ」
と言われて、私は逢いに来た父親《おやじ》よりも、逢いに来ない母親《おふくろ》の心が恋しくも哀しくも思われました。歯医者は熟《じっ》と物を考えて、思い沈んでおりましたのです。奥様はその顔を覗くようになすって、
「桜井さん、何をそんなに考込んでいらっしゃるの」
「成程――さすがは親だ」
「大層感心していらっしゃるのねえ」
「人情という奴は乙なものだ。……そうかなあ」
「何が、そうかなあですよ」
「難有い」
「ホホホホホ」
「そういうものかなア」
「あれ、復《また》」
「そうだ、もう半年も手紙を遣らない」
「誰方《どなた》のところへ」
「なにも私は御恩を忘れて御|無沙汰《ぶさた》をしてるんじゃ無いけれど……」
「まあ、好笑《おかし》いわ」
「つい、多忙《いそがし》くッて手紙を書く暇も無いもんだから」
「貴方、何を言っていらっしゃるの」
「え、私は何か言いましたか」
「言いましたとも。もう半年も手紙を遣らないの、御恩を忘れはしないの、手紙を書く暇がないのッて、――必《きっ》と……思出していらっしゃるんでしょう」と奥様は私の方へ御向きなすって、
「ねえ、お定、桜井さんは御|容子《ようす》が好《よく》っていらっしゃるから……」
「止して下さい。貴方はそう疑《うたぐ》り深いから厭さ」と男はすこし真面目《まじめ》になって、「こうなんです――まあ、聞いて下さい。私には義理ある先生が有ましてね、今|下谷《したや》で病院を開いているんです。私もその先生には、どんなに御世話に成ったもんだか知れません。全く、先生は私を子のように思って、案じていて下さるんで。私がこれまでに成ったというのも、先生の御蔭ですからね。ですから、『貴様は友達の出世するのを見ても羨ましくはないか、悪※[#「※」は「あしへん+宛」、48−13]《わるあがき》も好加減にしろ』なんて平素《しょっちゅう》御小言を頂戴するんです。……先生の言う通りだ――立身、出世、私はもうそんな考が無くなって了った。私の心を占領してるのは……貴方、貴方ばかりです。ああ、昔の友人《ともだち》と競争した時代から見ると、私も余程これで変ったんですなア」
と言って、稍《やや》暫時《しばらく》奥様の御顔を見つめておりましたが、やがて、思付いたように立上りました。見れば今まで着ていた裾の長い糸織を脱いで、自分の着物に着替えようとしましたから、奥様も不思議顔に、
「何故、それを
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